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芸術は誰のために?

 先日、あいちトリエンナーレの件で文化庁が補助金を不交付にしたことに関して、小説家の平野啓一郎がNHKのインタビューに答えていた。


「その時々の政権が、今の自分たちの考え方に合わないからといって限定しようとすると、それを忖度したような作品ばかり生まれてきます。そうした作品からは、僕たちの国を次の時代に向かって、人間の新しい可能性に向かって開いていくような力はもう失われてしまうと思います」(平野啓一郎)


 私も全く同感だ。彼はまた、次のようにも発言していた。


「芸術は、国家という枠組みを越えて世界的な広がりを持っている表現活動で、その中で生まれたものが、僕たち人間がいまここで生きているという状況の限界を超えて、新しい認識の領域を開いたり、感受性の領域を開いたり、自分の社会の現状を相対化して見る視点を与えてくれたりということをもたらしてくれるものです。」


 これも賛成である。彼は続けて話す。


「国家も、その時々にある思想を持っていて、ある政策に基づいて、行政を行っていますが、それを完全に相対化して新しい視点を開くような文化的な活動がコミュニティーの中にあったほうがいいということになっているから、国家は芸術を保護しているわけです。」


 これはどうだろう。国家は、そのような大局的視野に立った配慮から芸術を大切にしようとしているのだろうか?この点に関しては、平野氏の発言には希望的思いが強く含まれすぎているように感じられた。


 そもそも「芸術」ってなんだろう?


 私にとって芸術とは、着飾ってコンサートに行くことでも、長蛇の列に並んで一瞬だけ名画を拝むことでもない。芸術とは、自分が生きることを支えるもの、日常の生活になくてはならないもの、その意味では食べ物のようなものだと思っている。


 「芸術」というと、ちょっとお高く止まったような響きがある。しかし本来は、汗や涙や吐息にまみれた泥臭いものなのではないか。少なくとも私にとってそれらは、半ば秘められた、むしろ人に見せるのが恥ずかしいくらいプライベートなものだ。


 日本を代表するバイオリニストの一人である天満敦子が、バッハのバイオリン無伴奏組曲のCDのジャケットにこんな意味のことを書いていた(CDが手元にないので、表現は多少異なっていたと思うが)。


「本来、バッハの無伴奏組曲は、自分の部屋で、一人で、自分のために演奏するものだと思っているので、このような形で披露するものではないと思うのですが…」


 これがいわば「芸術」ということの原点なのだと思う。もちろん天満であっても、きっと、自分が愛してやまないバッハの音楽を誰かに聴いて欲しい、と思わない訳ではないだろう。だからCDにしたのだ。自分の内に秘めた思いを誰かに聞き届けてもらいたい、というのが芸術に打ち込む者の心奥なる願いであるはずだ。そのほかの願いをもって「芸術」に励んでいるものは、おそらく芸術ではなく別のものに励んでいるのだろう。


 人間の生存そのものを「耐えざる苦悩」であるとした哲学者のショーペンハウエルは、同時に、初めて芸術に焦点をあてた哲学者であるとも言われている。その彼は、芸術の中でも詩と音楽を「人生」を直感させるものとして高い意義を持つ、とした。特に音楽には、「事物の最内奥の核心」を示すものとして、この上なく高い位置を与えている。


 音楽好きにとって、そのように語るショーペンハウエルは好都合な哲学者である。音楽でも詩でも、あるいは絵画でも写真でも何でも、心から芸術に打ち込んでいる時は、ショーペンハウエルが言うように「生きることそのもの」に触れている感覚があるのではないだろうか。そして、できうることなら「それ」を誰かと分かち合いたい、と思うものなのではないだろうか。


 平野氏の語るように、「忖度」などという言葉は「芸術」にはそぐわない。忖度は「自分の本心を押し殺して他者におもねること」であり、芸術はそれとは逆に「自分の心を開放する」ことであるのだから。


 同様に芸術と政治は、本来、相容れないものである。芸術は「個人」の問題であり「信念」の問題であり、政治は「集団」の問題であり様々な「利害を勘案配慮」することが大切になってくるのだから。


 国家は芸術活動に対して「金は出すが口は出さない」というのが、最も望ましいあり方だろう。しかし大抵の場合、「金を出す者は口も出す」ということになる。それであれば、むしろ「口も金も出さない」くらいのほうがまだマシというものではないだろうか?


 国が芸術文化の内容にまで口を出すとろくな事にならないというのは、戦争を行う国の芸術がどんなモノになるかを見れば一目瞭然である。第二次世界大戦下の日本でもドイツでも、あからさまな文化統制が敷かれた。国家は基本的に、芸術を自分たちの政治に有利になるよう利用しようとするものなのだと思う。


 であるとすれば、私達が目指すべきは、まず芸術が極めて個人的な営みであることを確認すること。次に、それを他者と共有する努力をすること。そして、国家や公共権力の介入を常に警戒すること、なのではないだろうか。

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