top of page
  • tsubamekokoro

核と戦争

 今年も広島・長崎原爆の日が来て過ぎ去った。被爆者の核廃絶への思いを聞くたびに、核兵器の残酷さを思う。同時に、「情緒に訴える」方策だけでは世界は何も動かないだろう、とも感じる。


 核爆弾を落とされた日本は、未だに核兵器禁止条約を批准していない。その日本政府の対応に腹を立ててきた。しかしそれは、私の無理解だったのかもしれない、と最近は思っている。人間を、人間の理性を信頼し過ぎていたのかもしれない、と。


 きっかけは、前回のブログでも触れた、ロシアのウクライナ侵攻だ。プーチン率いるロシアは、ウクライナに対する核爆弾の使用を仄めかしている。そのような世界に住んでいることを、戦争被爆国の一市民としてどのように考えたらよいのだろう?


 仮にいまロシア制裁に賛成している日本に対して、ロシアが「核爆弾を使うぞ」と脅してきたとする。私達は丸腰で、つまり同盟国アメリカの「核ミサイル」を頼らずに、その脅しに立ち向かえるだろうか?


 核爆弾を脅しに使っているのはロシアだけではない。核爆弾を保有する国は、基本的に同じである。保有しているだけで絶対に使わない、などと宣言する国はありえない。使わない武器など、国を疲弊させるだけで持っている意味がないのだから。


 核を多量に持っている国がいくつもある世界で、果たして私たちは核戦争を回避する「仕組み」を作ることできるのだろうか?


 「戦争」という、「武力に訴えて国家間の利害を解決する」というという選択肢そのものを否定する「仕組み」が作られなければ、「核兵器を保持しない」あるいは「核兵器の傘に入らない」という選択をとることは、難しいのではないだろうか?


 実は、現在の「国際法」では戦争は否定されていない。これは驚くべきことだ。


 個人レベルに読み替えてみると、その理不尽さがわかる。気に食わない奴がいたら、決闘を申し込み、戦って、相手が降参と言うまでぶちのめしていい、と「国際法」は言っているのだ。その結果、相手が死のうが致命傷を受けようが関知しない。日本で言えば江戸時代、西欧で言えば中世に逆戻りしたような「ルール」だ。


 そんな「国際法」しかないものだから、諸国は軍備増強に余念がない。国家の命脈がかかっているのだから、当然といえば当然である。


 自分はその決闘ゲームに参加しない、と宣言することもできる。長らく永世中立国としての立場を確立してきたスイスや、中立政策を掲げることでソ連やロシアの脅威を回避しようとしてきたフィンランドやスウェーデンなどがそのような方策をとってきた。


 しかしそれとても、今年プーチン率いるロシアがウクライナに侵攻したことで揺らいでいる。


 その、中世的な「国際法」すら守ろうとしない今回のプーチンロシアの行動に、諸国は唖然とした。中立を宣言したところで侵略される可能性がある、ということを認めざるを得なかった。その結果、最近ではスイスはNATOへすり寄り、フィンランドやスエーデンはNATOに加盟申請を出した。


 今も「平和を祈る」ことはできる。大いに祈りたい。しかし、戦争を回避するためには、これまでとは明らかに違った「覚悟」と「方策」が取られなくてはいけない。


 では実際に、どうすれば私たちは、そのような世界で生き延びることができるのだろう?


 歴史を見ると、「平和」が作られる前には、大きな勢力を持つ者同士の間で血みどろの戦いが繰り広げられ、最終的に優位に立った者が支配権を握る、ということが繰り返されてきたことがわかる。平和的な「話し合い」や「融和策」で長期的な安定がもたらされたことは、残念ながらほとんどなかった。


 確かに、流された血が少なかった争いもあった。1989年のチェコスロバキアで起きた「ビロード革命」などは、その典型だろう。しかしその革命は、周囲の東欧諸国も同時に共産主義体制が崩壊するという「大きな流れ」の中で起こったものだった。しかもチェコスロバキアの国民は、軍人たちも含め、ソ連に無理やり併合されたという「恨み」があり、また抑圧的共産主義体制の下で長年「苦しんだ」という、国民に「共通」する思いがあった。そのような特殊な条件が揃って、初めて無血に近い革命が可能だったのだ。


 現在の世界の国々の抗争の背景には、そのような平和な世界体制への移行を可能にする素地はない。


 意気阻喪させられる例なら沢山ある。例えばイギリスのEU離脱。EUは、もちろん共通の利益や他国への影響力の担保という実際的な目論見もあっただろうが、民族の壁を超えて民主主義や平等の理念で「疑似国家のような共同体」を創るという理念に支えられた画期的な試みだった。


 そのEUからイギリスが離脱したのは2020年12月31日だった。離脱支持者にも理屈はあっただろうが、結局は「金」が大きな原因だったようだ。民主的な先進国をもって自認するイギリスですら「理念」によって人々を説得することはできなかった。


このことの持つ意味は、とても大きかった。それはまた、「平和」という理念や理想だけでは人を納得させることはできないという、辛いが赤裸々な現実を世界に知らしめるものだった。


イギリスだけではない。民主主義の旗手を自認するアメリカですら「アメリカ・ファースト」を声高に叫ぶトランプを選出した。他国から見れば恥さらし以外の何者でもないトランプを、アメリカ国民は再び担ぎ出そうとしている。他者の目というものを、彼の国の国民は感じないらしい。


 ロシアのウクライナ侵攻でも、諸国は利害で動くということが明らかになりつつある。初めこそ、日本も含めた諸外国はウクライナに対して「協力を惜しまない」と言明し、それなりに援助もしてきた。しかし戦争が長引きガソリン価格が上がり、物価が高騰し、エネルギーや穀物の需給が逼迫してきた今、やはり自分たちの生活が一番大事、ということになりつつある。背に腹は代えられない、不利益を被ると感じれば見捨てる。それが大方の人間の、そして国のありかただろう。


 私達人類は、繁殖欲と、それに付随するテリトリー意識をもって進化してきた。その結果が、現在の繁栄である。他の動植物を追いやりながら生存圏をひろげ、それだけでは足りないらしく、月や火星にまで繁殖地を広げたいと言い出す始末。


 そのような、人間という動物の根本にある「拡大増殖の欲望」が、戦争問題の核心にあることは明らかだ。そのことを見つめることなしに、問題を解決することは望めない。しかしそのことを、きちんと考えて政策を立てて実行しようとする国は、ほとんど聞いたことがない。


 そんなことをしても無駄だ、と思っているのだろうか?しかしそうだとすると、それこそ「戦争反対」などと唱えても、全くの無駄だと思われる。


 今年4月に「へいわ創造機構ひろしま」が発表した、「『脱核兵器』と持続可能性」と題する論文を読んだ。「へいわ創造機構ひろしま」は、昨年4月に広島県内の団体と広島県が共同で設立した団体で、論文作成には大阪大学や一橋大学の教授、あるいは1998年に内閣総理大臣の諮問機関としてつくられたという「地球環境戦略研究機関」のメンバーなどが名を連ねていた。


 その論文は、現在の私たちが抱える世界的な危機を以下の3つにまとめている。一つは地球の限界に関する危機、二つ目は世界・社会の分断による危機、三つ目は科学技術イノベーションの濫用に関わる危機。そして2020年以降、その3つの分野の危機が、それぞれに深刻化し、相互に危機を増幅しあっている、と指摘していた。


 その通りだと思う。残念なのは、それらの巨大な危機を乗り超える方策はあるのか、という最も大事な点に関して、明確な提案がなかったということだ。


 その論文の頭書きには、今後の世界のあり方についての「課題とビジョンを示す」とある。しかし具体的ビジョンはほとんど示されず、かろうじて「あとがき」の中で「国家中心の安全保障観から転換した『共通の安全保障』を追求」することが「必要不可欠」である、とだけあった。


 異論はない。しかしもっと踏み込んで、「国家」という社会制度に「主権」を与えたままで、その国家群をまとめるべき「強制力をもった法律および統治機構」がない状態では、いまの無法状態を統制できるはずがない、と言明するべきだと私は思う。


 かろうじて世界の国々をまとめる組織としては現在、国連組織がある。しかし常任理事国のメンバー及び権限を見ても明らかなように、国連は第二次世界大戦の戦勝国が、自分たちに有利なように事が運ぶことを目指して作られた組織にすぎない。従って、江戸時代の身分社会よろしく、敗戦国や途上国、弱小国には弱い権限しか与えられていない。


 国連決議に違反する国があったとしても、それに対して強い強制力や制裁を課す権限はないことも、大きな問題点である。


 そして、そのような国連のもつ無力さが端的に現れたのが、今回のウクライナ侵攻だった。第二次世界大戦の戦勝国であり大国であるロシアや中国の横暴を制することができないのだ。


 今人類に問われているのは、「理性は欲望をコントロールできるのか」ということにまとめられると思う。ウクライナ侵攻しかり、環境問題しかり、宗教紛争しかり、難民問題しかり、情報社会しかり…。そして今のところ、それに対する答えは「No」である。


 私たちは、どこに救いを見いだせるのだろうか?


 どう生きたところで短い人生である。世の中がどう移ろおうと、環境がどうなろうと、とりあえず今生きていることを大事にしながら、それでも自分に対して少しは「恥ずかしくない」生き方をするよう努力する以外、私たちにできることはない。そう淋しくつぶやきながら、毎日の報道を横目で見ている。

閲覧数:99回0件のコメント

最新記事

すべて表示

ウクライナと私たち

私たちは、おそらく戦後初めて、「自分の国をどのようにして守っていくのか」という問いを、切実に突きつけられている。  「正解」はないかも知れないが、その問題を回避して生きることはできない。そのような覚悟をもって、ウクライナ情勢を見守りたい。

bottom of page