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用水路をつくった医師

 中村哲という医者がいた。40年間の長きに渡りアフガニスタンの地で活動を続けたが、2019年12月に用水路建設の視察途中に狙撃され、5人のアフガニスタン人スタッフとともに亡くなった。


 生前に日本のマスコミに取り上げられることは多くなかったと思うが、亡くなって1年過ぎた今頃になって、彼を特集した番組を2つ見た。そして、その生き方に圧倒された。


 若い頃の彼は延命を目的とする医療に疑問を抱き、医者としての生き方に迷っていた。たまたま海外登山隊お付きの医師としてパキスタンに同行しないかという話があり、山と蝶が好きだった彼は簡単な気持ちでその話に乗った。


 その時訪れたパキスタンの村で、らいや結核に苦しむ患者に出会ったことが、彼のその後の人生を決めた。数年後にはアフガニスタンの医療を支援するNPOを立ち上げ、以来ずっと自ら現地で陣頭指揮をとりながら活動を続けた。


 当初は、貧しく医療へのアクセスがない人々のための診療所や病院を開設することに尽力した。しかしアフガニスタンを大干ばつが襲い、農地が砂漠化し多くの民が飢えると、彼は井戸掘り事業を始める。


 2003年には用水路の建設に着手し、これまで約27キロを開通させた。その用水路により1万6500ヘクタールの砂漠が緑地に戻り、65万人の農民の暮らしが支えられている。


 中村哲のすごさは視野の広さ、洞察の深さだけではない。無謀だと反対する人たちを何とか説得するコミュニケーション能力、次々と起こる問題を解決する粘り強さと思考力、および、自ら泥まみれになって現地の人とともに労働することを厭わない勤勉さ、人を差別しない公平な心などなど、挙げればきりがない。しかもそれを誇るところが全くない。彼は、その全体を理解するのが難しい、不思議な人だ。


 彼はもともと精神科医だった。学生時代は赤面恐怖症に悩み、人前ではうまく話せなかったらしい。特に女性にはまともに話しかけられないほどシャイな人間で、運動も音痴だったようだ。


 手も不器用だったらしい。しかし彼は、アフガニスタンで内科や外科の知識技術が必要だと知ると、自ら研修を受け、積極的に手術も行った。彼とともに活動した看護師は、「彼は不器用なのに、なぜか彼が手術をすると動かなかった手や足が機能するようになるので感動しました」と振り返る。


 土木建築の知識も技術もなかったが、これも独学した。自らクレーンを操作し、土嚢も担ぎ、力仕事を率先して行った。通常の工法では川の水の勢いが強すぎて取水口が壊れてしまうと知った時、彼は日本の伝統的な工法を学ぶために何度も福岡のふるさとを訪れた。そして何日も堤に佇み、古に作られて決壊することのなかった用水の取水口を眺めながら考えに耽っていた。


 彼は、入学した中学で出会った盲目の牧師の生き方に惹かれて、中学3年の時にキリスト教の洗礼を受けた。しかし彼が命を捧げたのは、イスラム教徒たちの住むアフガニスタンだった。キリスト教を布教しようという意図は全く持っていなかった。現地の人はおそらく、彼がキリスト教徒だったことも知らなかっただろう。


 異国の人々のために尽くしたが、彼は日本に残る家族を愛し、日本文化を愛し、日本人であり九州男児たることを誇りに思っていた。それらが矛盾なく、素直に彼の中に息づいていた。


 彼は、自分の育ってきた時代の人間は『信義』を大切にしてきた、と振り返りかえる。


 「かつての日本人は、日本人であるがゆえの価値観をたくさんもっていた。それが日本の活気をつくっていた、そういう気がするのです。『信義』というのは一人ではできない。他者がいてはじめて可能です。自分の思考なり行動のベクトルが内向きになっていった。いい言葉で言えば個人主義、最近の言い方をすれば引きこもりでしょうか。とにかく一人ひとりがバラバラになっている。そのなかで、信義というのが、あまりピンとこなくなってきている。しかし、それは本能に近いものもあるわけです。」(2010年、雑誌「O」創刊号の大澤真幸との対談の中で)


 彼は賢い人間だったが「理論家」ではなく、むしろ「行動の人」だった。彼にとって大事なのは人々が生き生きと生きることであって、思想や信条を掲げることではなかった。彼のその「思想の壁」のなさこそが、彼という人間の素朴さ、力強さ、暖かさをつくり、人々を惹きつけたのかもしれない。


 中村哲の葬式で喪主として挨拶をした長男の言葉が、中村哲の素顔を端的に伝えている。


 「私自身が父から学んだことは、家族はもちろん人の思いを大切にすること、物事において本当に必要なことを見極めること、そして必要なことは一生懸命行うということです。私が20歳になる前はいつも怒られていました。『口先だけじゃなくて行動に示せ』と言われていました。『俺は行動しか信じない』と言っていました。父から学んだことは、行動で示したいと思います。この先の人生において自分がどんなに年を取っても父から学んだことをいつも心に残し、生きていきたいと思います。」


 中村哲が天国で長男のこの言葉を聞いていたとしたら、さぞかし満足だっただろう。


 中村哲のことを何とか書きたいと思い、しかしあまりにも大きな人でまとめあぐねて外を歩いていたら、夕方の晴れた青空に白くぽっかりと穴があいたように月が浮かんでいた。少し視線を下げると、遠く東の山々が、少しオレンジがかったばかりの夕陽に映えて燦然と輝いていた。


 若かりし頃、山と蝶に惹かれて初めてパキスタンの山岳を訪れた中村哲も、そのような圧倒的な大自然に畏れを抱いた。その自然に比べれば自分も含めた「人間」は虫けらのような、はかない存在だと感じた、と書いている。


 しかし中村は、その「はかない人間」たちを、一生を通じて支え続けた。彼自身のはかない人生を通して、裏も表もなく、誠実に支え続けた。


 世に尊敬できる医者は多い。幼い頃に伝記で読んだ野口英世もシュバイツァーも、あるいは山本周五郎原作のドラマで見た「赤ひげ」も、あるいは近年では佐久総合病院を興した若月俊一も魅力的な医者だった。彼らはいずれも情熱的で信念を持ち、努力する人たちだった。しかし、中村哲はいずれの医師とも違ったタイプの人間だった。


 中村は常にギリギリのところで生きる人に手を差し伸べようとした。人々が、食べて寝て仕事ができる、という本当に「基本的に大切なこと」ができるようになることを目指していた。彼は、それ以外に大切なことはなく、それが人として、医師として、自分が行うべきことだと見定めていたのだろう。


 その人間としてブレることのない誠実さに惹かれる。私もそう有りたいと思う。しかし、この日本でそのような生き方をすることは難しい。だから中村も海外に出たのだろう。


 私も若い頃、海外で医療を行うことに憧れた。しかし、体力も気概も、その理想を持続させる力もなかった。いま中村のことを知り、その人物にこれほどまでに惹かれるのは、自分になし得なかったことを成し遂げて来た人だからなのかもしれない。


 彼の偉大さを口で説明するのは難しい。しかし彼こそは、日本人として(密かに)誇れる人間だと思う。

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