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  • tsubamekokoro

生きる意味

 若者たちが、生きる意味がわからない、と訴えることが増えたように思う。とても難しい問題だ。生きる意味を明確にしろと言われたところで、私自身、口ごもるしかない。


 最近のヒットソングを聴いていても、「よって立つところの何か」が明確に見い出せず、必死に誰かを大事にしたり何かをすることで、何とか人生に意味を見出して生きていこう、と自分を励ましているような曲が多いように思う。ひりつくような孤独感がにじみ出ている曲や、その裏返しとして、とりあえず「暗いこと」から目をそむけながら皆で戯れることで刹那的に生きようとする曲が多くなっているようだ。


 例えば、空前の興行成績を上げている映画「鬼滅の刃」の主題歌で知られているLiSAの「紅蓮華」や、ヒットソングを多数出している米津玄師の「感電」、あいみょんの「裸の心」などなど、どれも孤独にもがき苦しむ思いが歌のベースにあり、それが若者たちの共感を呼んでいるようだ。


 それに対して、例えば昭和のヒットソングはどうだろう。失意に沈む男や女の孤独を歌った河島英五の「酒と泪と男と女」にしても、失恋の悲しみを歌い上げた五輪真弓の「恋人よ」にしても、時代を超えて歌い続けられていると言われる中島みゆきの「時代」にしても、表面上は最近の歌と同じく「どうしようもない孤独」を歌っているように思われるが、歌の醸し出す雰囲気は全く違う。


 昭和の孤独には「相手」や「人」の影が見える。もし恋人や同志がいたら心が癒やされると思うのに、その相手が見つからない、という叫びが歌われている。しかし、現代の孤独はそれと明確に異なる。誰かがいればその孤独が癒やされるだろう、という希望は「すでに」失われている。あるいは「人」や「相手」で自分の苦しみが和らいだという経験すらないので、どうしたらよいのか皆目見当がつかないのかもしれない。それでも救いを求めずにはおれない、という「絶望的な孤独」があるように感じられて仕方がない。


 人の「生きる意味」とは人間どうしの「関係」からしか生まれ得ない。もし現代の孤独が、将来に渡っても「癒やされる見込みのない孤独」であるとしたら、「生きる意味」も見い出せる希望がない。そのことを若者たちは敏感に感じ取っているように思われる。


 一見便利で何不自由ないようだが、しかし希望の見いだせない世の中。私達は、そのような時代に生きているのだろうか?残念ながら、どうもそのように思えてならない。


 なぜそのような世の中になってしまったのだろうか?もし少しでも孤独が癒やされ、生きる意味を見い出しうるとしたら、それは「どのようにして」だろう?私にははっきりと答えることができない。これでは、迷いに迷っている今の若者と同じではないか、と苦笑いするしかない。困ったことだ…。


補筆:

 最近のヒットソングに詳しくないのでネットで調べたりYoutubeで聴いていたら、MISIAという素敵な歌手を見つけた。彼女は今も精力的に活動を続けているようだが、「逢いたくていま」や「Everything」などのヒット曲の多くは平成の半ばくらい(2000年前後)に出ていた。彼女の歌には「相手」や「人」を求める心が表現されていて、それが彼女の高い歌唱力と相まって聴き手の心を打つ。平成の前半にはまだ昭和的心性が強く残っていたのだろうか。MISIAの歌はもちろん耳にしていたが、改めて聴いたら深く心に染みる歌だった。


 スキマスイッチの「奏で」やコブクロの「蕾」などのヒット曲も2000年代の前半くらいまでのリリースで、まだ強く人と人との絆を信じ頼る心が描かれている。ところが例えば、いきものがかりが2009年にリリースしたヒット曲「YELL」では、確かな「自分」というものが感じられず「自分探し」に旅立つ心が描かれている。「友情」も申しわけ程度に描かれているが、人との絆の確かさが薄くなっていて自分の「存在の不安」が露呈している。今から10年前、2010年あたりから人々の意識が変わってきたのかもしれないと思われた。

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