top of page
  • tsubamekokoro

時間は存在しない

 時間とはなんだろう?


 日々雑事にかまけて「時間がない」などとこぼしながら生きている私たちだが、「時間」について真剣に考えることは少ない。しかし、「生きる」ことが「時間」を費やすことであるならば、時間についても真剣に考えざるを得ないだろう。


 精神医学は「生き方」を考えることなしには成り立たない。一方で「時間」について考えるのは、伝統的には、哲学者だった。ところが最近は、物理学者もこれに加わっている。現代では、精神医学と哲学と物理学は「時間」を仲立ちとして密接に関っていることになる。


 そのことを強く印象づけられた本があった。イタリアの物理学者であるカルロ・ロヴェッリが2017年に書いた「時間は存在しない」という本だ。


 その本を読むと、「時は流れ行く」という私たちの感覚に基づいた常識が揺らいでくる。同時に、「生きるはどういうことか」という哲学の根本的な問題が、現代の物理学の発展によって大きく変貌してきていることも分かってくる。


 本の前半では、世界を統べる「普遍的時間」というものはないことが説明される。難しい数式は出てこない。しかしその物理学的考え方は難解で、ちゃんと理解できたか心もとない。が、自分のためにも、そこに示されている世界をまとめておきたい。


 「世界を統べる時間」が存在しないということは、天才物理学者のアインシュタインが100年以上前に相対性理論で明らかにした。最近では2016年に重力波が観測され、相対性理論の正しさが、また裏打ちされた。彼の理論を否定する証拠は今のところない。本当に「普遍的時刻」は存在しないし、それと同じことだが、「時空は歪んでいる」らしい。


 「普遍的時刻」のない宇宙では、私達の感覚では理解し難いことが多々起こる。そのひとつに、観測者は自分から離れたところの「(観察者にとっての)今現在」の姿は知ることができない、ということがある。


 たとえば10m先で人が銃で撃たれたとする。その人が倒れ、血が周囲に流れ出す様子が見えるかもしれない。私達は「リアルタイム」で、その事件を目撃している、と普通は思う。しかしそれは、距離が近すぎるために(光が伝播する時間が無視できるほどに短いために)、リアルタイムに「見える」だけなのだ。厳密に言えば私達は、その人の「(私たちにとっての)今現在」より「ほんの僅か前」の状態を見ていることになる。


 このことはもっと極端な例を考えるとはっきりする。たとえば、宇宙の始まりについて。宇宙は約138億光年前のビッグバン(大爆発)で生まれたとされているが、そのビッグバンの発生した地点の「(私たちにとっての)今現在」を見てみたい、と思ったとする。しかし、どんなに高性能な望遠鏡をつかったところで、ビッグバンの発生した地点の「(私たちにとっての)現在」の様子を見ることはできない。私達が見ることができるのは、あくまでも「今現在地球に住む私たち」に見える138億光年前のビッグバンの光景だけ。それがアインシュタインの説いた宇宙だ。


 その意味では、私たちに見えているものはすべて幻なのだ。


 それは、「今は亡き人」の映像をビデオで見るときの感覚に似ているかも知れない。そこには映し出されている人は、まるで今も生きているかのように話し、動き、笑いさざめいている。しかし実際にその人に会うことは、もう決してできない。会えてる感じがするのに決して会えない…そのもどかしさ。「見えているその人」は、実は今はどこにも存在しないという不思議。しかし、どこにもいないとしたら、いったい私達は今、誰に出会っているのだろう?


 あるいは本来、私たちの経験はすべて「自分だけのもの」でしかあり得ないのかも知れない。人と気持ちを分かち合えたと感じても、自分の感じていることが全く相手と同じだ、と保証するものはない。たとえ一卵双生児の兄弟であったとしても、各々が一つの人格であれば、感じていることは違うはずだ。その意味では、私たちは一人ひとり固有の時間軸をもった「宇宙」に住んでいるのであり、それが重なり合うような形で生きているのかも知れない。


 ともかく、「宇宙を統べる時間」はないようだ。


 では、時間の「流れ」は、この宇宙に存在しないのだろうか?ロヴェッリ氏によると、時間は一定の速度で流れているわけではないが、「出来事の連鎖」というものは確実にあるとのことだ。そして、その連鎖の「不可逆性(もとに戻らないこと)」を裏打ちするのがΔS≧0である、と彼はいう。


 ΔS≧0 (ここでΔSは[エントロピー=乱雑さ]の変化、の意)


 これは、彼の本に出てくるたったひとつの数式である。見覚えがある。高校の物理の教科書に書いてあった。その単純な式は、「熱力学の第2法則」と紹介されていた。


 私流に超解読すると、この式は、「崩れたものは、ひとりでに戻ることはない」ということを意味する。例えば「角砂糖は水に溶かすと元の四角い砂糖には戻らない」ことも、その式で説明できる。宇宙の出来事は、「乱雑さ」が増す方向にしか変化しない。それが、出来事の「不可逆性」を保証しているのだという。


 しかしややこしいことに、できごとの連鎖を辿っていくと、宇宙の「一部分」では、「元の状態」に戻る可能性も絶無ではないという。それは、最近のアニメに見られるような「時間の流れが逆方向に動く」のではなく、「巡り巡って元の状態に戻ってしまった」という形をとるらしい。それがどのような状態を意味するのか、私には想像できない。もしかしたらSF小説やアニメなので時々描かれる「輪廻転生」のような形をとるのだろうか??


 以上のようなことだけでも十分衝撃的だが、ロヴェッリはさらに、空間や時間には量子性(粒としての性質)があると主張し、次のように述べる。


 「この世界を出来事、過程の集まりと見ると、世界をよりよく把握し、理解し、記述することが可能になる。これが、相対性理論と両立しうる唯一の方法なのだ。この世界は物ではなく、出来事の集まりなのである。」


 「物」ではなく「出来事」でできているとは、まさに仏教の根本原理である「色即是空」(「存在」はすべて「つながり」で生ずる「一時的な現象」である、の意)そのものだ。


 例えば穏やかな川の流れも、実は激しい水の分子の運動でできており、電子顕微鏡で拡大すれば(おそらく)透明でもなければ連続してもいないはずだ。ただ、私たちの「大雑把な」視力でみるとゆるやかに流れる」ように見える。それと同様、「時」も微細に見れば、ぶつぶつと粗雑に「時間のない世界に『生じる』」ものである、とロヴェッリ氏はいう。これも、途轍もなく想像しにくい世界だ。「時」が「生じる」ものであるとは…。では、「時」の「生じていない」状態とは、どのようなものなのだろうか。私には分からない。


そもそも私たち人間には、「時の生じていない状態」を想像するのは難しいのではないだろうか?それは、例えば2次元(平面)の世界に住む生物がいたとしたら、その生物には3次元の立体空間を想像することが難しいのと同様なのではないだろうか?ロヴェリ氏に尋ねてみたい気がする。


 本の後半では、「なぜ宇宙が今のような宇宙であるのだろうか」という、これまた根本的で重たい、私たち人類には分かりようがないかも知れない疑問について考察が述べられている。


 先述のように、この世を秩序立てているものがあるとすれば、それは「エントロピーΔS(乱雑さ)の変化」に規定される「順序」であり、それが「時間の芽」となっている、ということだった。であるとしたら、宇宙の始まりはエントロピー(ΔS)の低い状態でなければならない。我々の住む宇宙は、その始原において極めてエントロピーの低い状態だったのであり、そこからエントロピーの増大する方向に変化してきたのが「宇宙の歴史」だった…そこまではいい。


 でも、どうして私達の存在する「エントロピーの低い宇宙」が138億年前に存在していたのだろう?それは「神」のなせる技なのか?…しかし物理学者は神を持ち出さない。


 ロヴェッリ氏は、始原宇宙がそのように低エントロピーであったのは、宇宙が特別な条件を有していたわけではなく、私たちが宇宙の「ある特殊な物理系」に属しているだけなのではないか、という仮説を立てている。そして、その物理系の下で進化してきたのが私達だったのではないか、と。


 先日、20年ぶりに新札が発行されることになったというニュースが流れていた。その新札では、紙幣の角度を変えると画像の模様や色が変化する「ホログラム」という最新の技術が導入されるそうだが、ロヴェリ氏のいう「ある特殊な物理系」というのは、そのようなものらしい。全体としては特別なものはないのに、「見る角度」によっては「何か」が見えてくるという…。


 本の最後でロヴェリ氏は、宇宙の現象の解明に取り組んできた自分の人生を振り返っているが、それがこの本をとりわけ魅力的なものにしている。氏は、人間は「自分に向かって自分のことを明快に説明できるほど大きくはなっていない」とし、さらに次のように述べる。


「それをいえば、『理解する』ということの意味すらはっきりしない。この世界を見て記述し、それに秩序を与える。この世界そのものと自分たちがそこに見ているものとのほんとうの関係は、じつはほとんどわかっていない。自分たちに見えているのがほんのわずかであることはわかっている。」


 ちょっと考えると、虚しくなりそうな気がする。しかしロヴェッリ氏自身の人生は、虚無感とは無縁である。苦しみや年を取ることは恐ろしいが、死は怖くない、と言う。そして、自分の辿ってきた軌跡を振り返る。


「わたしは思うのだ。人生―この短い人生―は、さまざまな感情の間断ない叫びにほかならない、と。(中略)それは美しく輝いている。あるときは苦痛の叫びとなり、あるときは歌となる。(中略)やがて歌は微かになり、やんでしまう。(中略)それでよい。私達は目を閉じて、休むことができる。わたしには、これらすべてが公正で美しく思える。これが、時なのだ」


 ロヴェッリ氏のこの言葉は、仏陀が80歳で重病を患い最期を迎える時の言葉と重なって聞こえる。


「この世は美しい。人の命は甘美なものだ」


 ロヴェッリ氏は、儚くて限りある自分の生を、文字通り、有り難いこととして受け止めながら、自分に誠実に生きてきたのだろう。


 宇宙がどうであれ、時間がどうであれ、ともかく私たちは人間としてこの世に生を受けた。それは本当に奇跡そのものだ。そこのことを、私たちは普段何も意識せずに生きているが…。


 私達は日々、様々なことに頭を悩ませながら生きている。しかし氏は、「それでいいのだ」と言う。この奇跡的な人生を一生懸命生きて、悩み、泣き、喜び合えばいいのだ。私達にはそれしかできることはないし、それでよいのだ。


 「時は存在しない」。素晴らしい本だった。

閲覧数:440回0件のコメント

最新記事

すべて表示

核と戦争

世の中がどう移ろおうと、環境がどうなろうと、とりあえず今生きていることを大事にしながら、それでも自分に対して少しは「恥ずかしくない」生き方をするよう努力する以外、私たちにできることはない。そう淋しくつぶやきながら、毎日の報道を横目で見ている。

ウクライナと私たち

私たちは、おそらく戦後初めて、「自分の国をどのようにして守っていくのか」という問いを、切実に突きつけられている。  「正解」はないかも知れないが、その問題を回避して生きることはできない。そのような覚悟をもって、ウクライナ情勢を見守りたい。

初夢

ヘッセが書いたように、「ある=be」的生き方は、畢竟する所、「愛」の一語に尽きるのだろう。結論は単純明快だ。しかし、そのことを本当に会得することは難しい。それは様々な苦しみを経て結晶してくるもの、あるいは僥倖のようにもたらされるものなのだろう。

bottom of page