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小さな旅の思い出

 秋になって、むせ返るように鳴いていた虫の声も勢いがなくなってきた。ことしは夏が早く来て早く終わり、秋の深まるのも早いように思うのは気のせいだろうか。


 この夏の一番の思い出は、妙高の笹ヶ峰でのキャンプだった。家族3人でのキャンプは本当に久しぶりだった。息子が幼かった頃は、火打山や妙高山に登るベースキャンプとして笹ヶ峰のオートキャンプ場を利用し、自分たちでテントを張って寝た。しかし今回は時間も足らなかったので、貸しテントを3000円で借りて泊まった。


 十数年前に泊まったときは、笹ヶ峰のオートキャンプ場は白樺などの生えている自然林の中にあった。駐車スペースが1台1台独立していて、他のキャンパーたちの様子を気にせずキャンプでき、野性味あふれる体験ができた。


 コンクリートで作られた小さな炉もあり、周囲の木を集めて燃やすこともできた。他の宿泊者との間には木々の緩衝帯があるので、熾火ができるまでモクモクと燻されるような煙が出ても、さほどで気にする必要がなかった。


 オートキャンプをしたのはそれが初めてだった。他の所でも同じようなものだろうと、その後いくつかののオートキャンプサイトを利用してみたが、笹ヶ峰ほど自然に囲まれた感じのするところはなかった。笹ヶ峰は特別なキャンプ場だった。


 笹ヶ峰のキャンプサイトの特徴は他にもいくつかあった。とても広く、多くの人が泊まっていても混雑感が少ないこと。貸テントやシャワーなども整備されていること。周囲に散策できる湖や山があることなどなど…。標高1300mの高地にあるため涼しく、空が澄んでいて星空がきれいに見えたのが、とりわけ印象的だった。


 以前と同じように、今年も夜に家族でキャンプ地内の道路をそぞろ歩きした。ところどころガスがかかっていて、見渡す限り星空というわけには行かなかったが、天の川のけぶっているように見える星たちも見えた。星たちがくっきりと光り冴えわたっている空を見上げたのは、6年前に新潟に戻ってきて以来だったように思う。


 星空を見ていると、とても美しいと思う。と同時に、こんなに美しく深く広い宇宙の中にあって、なんと自分の存在はちっぽけで儚いのだろうとも思わざるを得ない。自分がちっぽけな存在であるのは言わずもがなの事なのだが、能天気なことに、ふだんはそのことを忘れている。星空を見ていると、そのことに思い至らされる。


 以前笹ヶ峰で星空を見ていた時、流れ星が見えた。たまたま私だけがそれを目撃し、妻も息子も見逃して悔しがっていた。あれから十数年経って、同じ星空を眺めて、そのことを思い出した。


 息子は大きくなってしまった。しかし、こうやって一緒にキャンプしてくれることが、私は嬉しかった。その晩にみた星空は、流れ星こそ見つからなかったが、こころに沁みた。


 ショックなこともあった。以前泊まったオートキャンプ場が廃止になっていたのだ。キャンプサイト内を通る道路には落ち葉や雑草がはびこり、炉や木立や駐車スペースも雑草に覆われていた。もう数年来、使われていないようだ。


 隣接するきちんと区画整理されたオートキャンプ場は使われており、何台も車が停車していた。そこは隣同士の間に木々はなく、車とキャンプサイトが行儀よく並んでいた。ちょうど縦割りされた建売住宅のようにこぢんまりと…。


 なぜワイルドな、自然が満喫できるサイトが閉鎖され、分譲住宅のような人工的なサイトのほうが使われているのだろう?ワイルドな方には電源設備がなかったからか?ヤブ蚊やゲジゲジが嫌われたのか?あるいは人手や金がかかないようにという管理運営側の都合だろうか?


 理由は分からない。しかし、とても残念だった。自然の中で寝泊まりする感覚を味わえるサイトの方が消えてしまうなんて、まったくセンスのない話だと思った。


 「小さな旅の思い出」という、あまり知られていない曲がある。こわせ・たまみ作詞、中田喜直作曲で、もう一度聞きたいと長年探してきたが、いまだに叶わない。かろうじて歌詞だけが見つかった。少し長いが、以下に引用させていただく。


夏の日が まぶしかったね

草いきれ はげしかったね

秩父から 高麗(こま)へ出る道

晩夏(おそなつ)の 妻坂(つまさか)峠

なでしこの なでしこの

ちいさな花に 足をとめたね


杉木立 すずしかったね

岩清水 つめたかったね

秩父から 高麗へ出る道

晩夏の 妻坂峠

こもれびが こもれびが

蝶々のように 肩でゆれたね


夏草で 指を切ったね

ハンカチを かしてくれたね

秩父から 高麗へ出る道

晩夏の 妻坂峠

こんど また あんな旅

ちいさな旅を きっとしようね


 歌っていたのはボニー・ジャックスだった。叙情に溢れ、寂しさと懐かしさを帯びた歌声は脳裏に刻まれていて、笹ヶ峰のキャンプを思い出すたびに、その歌も一緒に思い出される。


 笹ヶ峰から火打山への向かう山道の途中にあった清流。そこに手をかざした時の、水の冷たさ。キャンプ地や登山道に咲く小さな花。煙にむせながら苦労して起こした炉の火。そして夜空にさざめく星たち…。


 星空の下では、私たちの命などは無意味に等しいものだという感覚と、それでも私たちの命は限りなく愛おしいという感覚が同時に押し寄せてくる。


 笹ヶ峰は今年もまた、小さな、しかし大切な思い出を与えてくれた。良い夏だった。


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