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  • tsubamekokoro

これからの世界

 今年も、異常気象による被害が大きかった。千葉では台風15号の風で鉄塔が倒れるなどして大規模停電が2週間続いた。その約1ヶ月後に上陸した台風19号では、長野県や宮城県など多くの地域で川が氾濫して多くの犠牲者を出した。新潟県内でも長岡市で信濃川が決壊した。大河津分水でも氾濫危険水位を超え、いつ氾濫するかと半日ほど落ち着かない状態で過ごした。


 地球規模での異常気象は明らかになっていて、南極やグリーンランドの氷河の崩壊もますます速度を増している。じわりじわりと海面上昇は続いているが、その速度が急速に増加する可能性もあるらしい、と気候学者たちは警告している。


 原子力発電や原子力爆弾で連鎖的に反応が起こり始める点を臨界点と呼ぶ。地球温暖化にもその「臨界点」があるということは以前から指摘されてきたが、どうも最近地球はその臨界点に差し掛かりつつあるらしい。


 原子力発電の場合は、制御棒という反応を鎮める金属の棒を核反応炉に差し入れることで反応をコントロールできるが、地球温暖化の場合、その制御棒にあたるものはない。ひとたびある地球システム(例えば氷河や海流、森林の量など)が臨界点を超えると、複数の地球システムが連鎖的に臨界点を超え始め、地球全体が後戻りできなくなる可能性が大きい。


 折しも、地球温暖化に歯止めをかけるべく話し合いを続けた国際会議COP25が今年12月15日、大きな成果をあげることなく閉幕した。世界100カ国以上で行われた、子供たちの温暖化対策を求めるデモ(これはスウェーデンの少女の訴えをきっかけにして始まったらしい)も、温暖化で今にも海に沈みそうな国々の訴えも、すべて無視されてしまった。


 一方で12月12日、英国では、EU離脱を強く主張するジョンソン首相率いる保守党が圧勝した。EUはもともと、ヨーロッパという地域限定ではあるが、「平和的世界統一の第一段階としてのヨーロッパ統一」を呼びかけるという理念で作られた。それは、「国」という枠を超えて共通の行動を取ろうとする画期的な試みだった。そのEUの大きな一角であったイギリスが離脱する。世界でもっとも成熟した文化地域を自認するヨーロッパにおいても、自分の利害を超えて協同することはきわめて難しい、ということが証明されたようなものだ。


 私達は大きな岐路に立たされている。このまま行けば、国も人種も貧富も、動物も植物も関係なく、地球上のほとんどすべての生物に、確実に危機的状況が待ち受けている。なのに、私たちは行動できない。暴漢に追いかけられているのに足が思うように動かない、などという悪夢を見ることがあるが、そんな、どうしようもない感じがする。


 私達は何を求めて生きていけばよいのだろうか?ほぼ効果がないような個人的な温暖化対策をすすめるべきなのだろうか?どうせ滅びるのだと、刹那的享楽的に生きればいいのだろうか?それとも、この期に及んで、生きるとはなにか、生命倫理とはなにかを哲学的に考察するべきなのだろうか?あるいは、危機を見ないふりして、生活の些事にかまけて、その日その日を淡々と送ればよいのだろうか?


 私にはわからない。とにかく暗澹たる気持ちになる。私達は、いったい何をしているのだろうか?なにを目指して生きているのだろうか?

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