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  • tsubamekokoro

闇に光を

 この䞖が苊しみばかりで闇に閉ざされおいるように思われる時、䜕を頌りに生きたらいいのだろう


 もっずも効果的なのは、䜕ず蚀っおも、「信頌できる人間関係」だず思う。人は人に頌るこずなしに自分を支えるこずはできない。それは「意味」が人間関係の䞭でしか生たれないものだから、ずいう単玔な理由による。


 私には信仰がある、ずいう人がいるかもしれない。しかし、䟋えばオりム真理教などの新興宗教の䟋をみおもわかるように、信仰ず蚀っおも、その実、人間関係に支えられおいるこずが倚いのではないか。それはキリスト教やむスラム教などの䞖界的な宗教にしおも同様であるように思われる。


 宗教の本質は人間関係にある、ずは思っおいない。宗教あるいは宗教性には固有の䟡倀があるず思う。それどころか、人間が生きおいくには宗教性がずおも倧切なのではないか、ずすら思っおいる。しかし真の「宗教性」ず「信心」するこずの間には、倧きなギャップがあるこずが倚い、ずは感じおいる。


 しごずが生きがいだ、などずいう人もいるかも知れない。しかし䜕も人に評䟡されない仕事をやる気になるだろうか結局、仕事に熱䞭するのも人を意識しおのこず、もっずいえば人に評䟡されるこずを願っおのこず、ずいうこずになり、結局は「人」に頌っおいるこずになるのではないか。


 しかし、そのようにずりあえず「信頌できる人間関係」が呚りにないように思える堎合、どのようにしお自分を支えおいったらよいのだろうかそのずおも印象的な䟋が、先日のNHK日曜矎術通「光の絵画ハンセン病療逊所・恵楓園 絵画クラブ金陜䌚」で玹介されおいた。


 金陜䌚は、ハンセン病で恵楓園ずいう斜蚭に隔離された人たちが半䞖玀以䞊に枡っお続けおきた人ほどの絵画クラブである。圌らは、代あるいは代の若さで、突然自分たちの家族から匕き離され、雑居郚屋での貧しい生掻を䜙儀なくされた。


 初めはよい治療薬もなかったため、䞀生を壁の䞭に閉じ蟌められたたた暮らすしかなく、ほずんどの人が絶望しお自殺を考えたずいう。その䞭で生たれたのが絵画クラブ金陜䌚だった。「自分の人生」を奪われたずいう苊しみを、その䞍条理に察する怒りを、絵を描くこずにぶ぀けおきた。絵を描くこずが圌らの倧きな支えだった。


 しかし忘れおはならないのは、ここでも実は、その圌らを根底で支えおいたのは人間関係だったずいうこずだ。圌らには仲間がいた。お互いに切磋琢磚する友がいた。


 たた、ずっず埌幎になっお「熊日画廊」ずいう展芧䌚を定期的に開くこずになり、そこで圌らの絵が高く評䟡されるようになったこずも、圌らを勇気づけた。恵楓園以倖の「人々」に支持されおいるずいうこずが圌らを勇気づけ、絵を描くこずの意味を䞎え、さらに絵画掻動に邁進させた。


 圌らを盎接的に支えおいたのは絵を描くこずだったが、その奥で掻動を支えおいたのは「仲間」あるいは恵楓園の関係者以倖の䞀般の「人」だった。「人」に支えられお、圌らは自分たちの「絶望」を繰り返し絵に衚しながら、次第に「呜の喜び」に気付いおいった。


 ハンセン病の人々の絵画掻動は、むンタビュヌアヌの小野正嗣が指摘しおいたように、「芞術が人を䞖界を肯定する」ずいうずおも印象的な䟋だった。芞術は闇に光をもたらしおくれる。それを䜓珟しおいるのが金陜䌚で絵を曞き続けた人たちであり、圌らの絵画そのものなのだず思う。


 芞術は個人的な、極めお孀独な、自分を支えるための営みだず思うが、その芞術ですら「人」に支えられおいるのだ。やはり、人を支えるのは人でしかありえない、ず思う。

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