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異国での子育て


 最近妻は、劣化が強いアルバムから写真を新しいアルバムに張り替えている。そして、何か発見があると私を呼ぶ。自分達が若かった頃のこと、いま大学生になっている長男が幼い頃のこと…。ほとんど思い出すこともなくなっていた過去の記憶が、写真を見ているとおぼろげながらに蘇ってくる。

 一緒に楽しそうに写ってい­るのに、誰だったか思い出せない人もいる。長く生きてしまったものだ。決して戻らない過去の自分や家族をそこに見て、生きるって一体なんだろうと改めて思わざるを得ない。その時、私は真剣に生きていただろうか、と自問せざるを得ない。

 いま大学生になる長男は、1歳から4歳までの大事な時期をアメリカで過ごした。私がアメリカの大学院に留学していたからだ。ようやく片言の日本語を話しかけていた時期にアメリカに連れてこられて、長男には大変なストレスがかかったに違いない。

 渡米時に1歳半になっていた長男の異文化適応は悪かった。幼児は柔軟なので適応力が高いはず、と当て込んでいた私たち夫婦の思惑は外れた。ほぼアメリカ人だけの幼稚園に入った彼は、何年経っても園ではおとなしく、家族の中あるいは休日などに日本人の子どもたちと遊ぶときだけ威勢がよかった。大事な幼児期に、全く私の身勝手さゆえ辛い経験をさせてしまったことは後悔している。

 しかし、全体として幼児期をアメリカで過ごしたことは、彼の人生にとって、むしろ良かったのではないだろうか、と思っている。これは、私の自己正当化ゆえの結論ではない。アルバムを見ると、毎日がパーティーなのではないかと錯覚するくらい、集まってワイワイ楽しんでいる写真が多くあるのが一つの証拠だ。

 当時私達が住んでいた界隈には、妻子を連れて留学してくる日本人研究生が多く住んでいて、そのような妻や子どもたちの多くが暇を持て余し、よく一緒に「お茶」と称して何家族か集まり、子どもたちは遊び親たちは井戸端会議をする、という平和な時間を日常的に持っていた。

 そんな時母親たちは、アメリカのお菓子が美味しくなかったこともあって、お菓子を焼いたり簡単な料理をしたりして持ち寄ることが多かった。料理ぎらいだったり、お菓子をつくったことのない奥さんたちも、アメリカでは他にすることがないし、そのようにして人と交わらないと孤独になるため、料理をつくっては持ち寄って楽しんでいた。もともとアメリカ人たちはホームパーティが好きで、しょっちゅう手料理を持って集まっていたので、それを真似ていた面もあったとは思うが…。

 その頃のことを妻は、「他に何もすることがなくて暇だったからできたのよね」、と振り返る。奥さん方は皆、子育て以外にすることがなかった。留学先の異国の地なので、家具、衣類なども含め持ちものは最低限しかない。借家なので庭もいじれない。家を磨く必要もない。言葉が不自由なので趣味を習うこともできない。もちろん職業もない。何もない。ただ時間だけはたっぷりある。

 しかし、子どもとだけで過ごしていると母子ともに煮詰まるので、仕方なしに何家族か集まり「お茶」をする。それが親同士、子ども同士、あるいは親子の関係にとってとてもよかった。お互いがじっくりと話したり遊んだりする中でしか生まれない「豊かな時間」がそこにあった。

 多くの妻たちにとっても、夫の留学に従って異国の地で子育てをすることは大きなストレスだったに違いない。しかし、そこでの濃密な交流は、彼女らにとってはもちろん、子どもたちにとっても、かけがえのないものだった。

 母親たちが、持ち寄りの料理で談笑している傍らで、子どもたちは体を使って遊ぶ。アメリカのアパートは広かったので、居間は子どもたちが暴れるに十分なスペースがある。その頃は誰もゲームなどしていなかった。居間からは、アパートの共有スペースである庭にも出ることができて、芝生の上で子どもたちは犬のようにじゃれ回っていた。ほんとうに子どもたちは楽しそうだった。写真をみても、そんな雰囲気が伝わってくる。

 子どもたちだけではない。そのようにして、異国の地で適応を余儀なくされている者同士ということもあり、また有り余る暇な時間を、亭主に関する愚痴も含めて、散々にこぼし合い、苦楽を共にした妻たちは、帰国してからも連絡を取り合い、時折集まって旧交を温めている。彼女らにとっても、かけがえのない時間だったのだと思う。

 ひるがえって今の日本。母親たちも、外で働くことが半ば強制されている。男女平等といえば聞こえがいいが、それが本当に子どものためになっているだろうか?お母さんが働いて、そのストレスを貯めたまま家に帰ってきて、子どもと楽しく豊かな時間を過ごす余裕があるだろうか?日本の幼児教育は、母親の子育てを代替できるのだろうか?親の関与する時間が少なくても、本当に子どもたちは健やかに育つことができるのだろうか?大体が、親は子どもを第一に考えて生活しているだろうか?

 私も、ひとりの子の父親であるが、ちゃんと子育てしたと胸を張って言えない。我儘で気まぐれで自分のことで精一杯な人間なので、家族にはいつも迷惑をかけっぱなしだ。留学中はストレスだらけで、特に気持ちが荒れていた。しかし、にもかかわらず、幸いにも子どもは素直に育ってくれた。

 何がよかったのかは断定はできない。しかし、アメリカで母子ともに暇でお茶ばかりしていた環境は、息子の心を豊かにしてくれたと思っている。妻も同じ意見だ。いわゆる「早期教育」とは無関係。「忙しさ」とも無関係。「情報過多」とも無関係。しかし人間関係は濃密にある。そんな牧歌的な環境で育ったことは、息子の人間としての大切な基礎を作ってくれたと私達は思っている。

 私は今の日本の子育てに大きな危機感を抱いている。子育ての真っ盛りの親たち、あるいはこれから子育てをする若者たちに、どんな環境が子どもにとってよいのか、真剣に考えてもらいたくてこのブログを書いている。

 「1億総活躍社会」などというスローガンに乗る必要はない。「豊かに生きる」とはどういうことかを、よく自分で考え行動することが必要なのだと思う。その子にとって子供時代は一度しかない掛け替えのない時である。その事情は、親にとっても全く同じなはずだ。当たり前のことに思えるかもしれないが、どうか子育て真っ最中の親に、そのことをよく感じてほしい、と日々診察していて思う。


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