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夏休みの自由研究

 夏休みが終わろうとしている。外来に来る子どもたちに、夏休みの宿題が終わったか聞くと、自由研究が終わっていない、と答える子も多い。それを聞くと、私もいつも「自由研究」には困っていたことを思い出す。


 小学校の高学年の頃、家の近くを流れる栖吉川の匂いがだんだん臭くなってきたのが気になっていた。とくに夏の水かさの減っているときは、醤油色の水がひどい臭気を放ち、魚が死んで浮かんでいることもあった。


 その頃は高度経済成長の只中で、1965年(昭和40年)には阿賀野川流域で新潟水俣病の「発生」(この「発生」という言葉は、何かが自然に生まれでてきたような印象を与えるので適切でないと思う)が確認されている。


 栖吉川の悪臭は、ほぼ工場排水が原因であるとは思っていたが、どのような工場が何を流しているのか分からなかった。それを突き止めるのを「夏休みの自由研究」のテーマに選んだまでは良かった。


 しかし、どのようにして調べたらよいのか、皆目検討がつかない。川の上流に行けば、どの工場が醤油色の排水を出しているのかわかるだろうかと、自転車で行ける所まで行ってみたが、結局わからなかった。


 何が醤油色の川水に含まれているのか調べようと、空き缶に紐をつけて水を汲んできて、家の玄関先で実験した。習いたてのリトマス試験紙で酸性かアルカリ性か調べたり、理化学辞典を見て塩酸や硫酸と反応させてみたり、それをアルコールで熱して塩を析出させようとしたが、何も出てこなかった。


 親に白金棒を買ってきてもらい、炎色反応も試みた。しかし、やはりわからなかった。銅やナトリウムなどが多量に含まれているのなら反応したかもしれない。しかし有機化合物が主な汚染物質だったら、反応がないのは当たり前だろう。しかし当時小学生だった私に、そのような知識はなかった。


 調べてみたものの何も手がかりもつかめず、結局、「汚染の原因を突き止める」というテーマは放棄せざるを得なかった。今考えると、それはそれで報告を書けそうだが、当時そんな知恵はなかった。結局、「使いやすい庭の塵取り」などという工作でお茶を濁したように覚えている。


 私が選んだテーマは良かった、と今でも思う。しかし、そのテーマを、どのような手段で追求しまとめるか、ということが、当時の私にはとても難しかった。


 長じて大学院に進んで卒業論文を書かざるを得なくなって、初めて「研究の進め方」があることを知った。「研究」には「方法論」があるのだ。しかしそのようなことを、日本の教育の中でしっかり学んだ覚えは、少なくとも私は、小学校から大学に至るまでなかった。


 「方法論」と言っても、さほど難しいものではない。


 まずテーマをできるだけ絞る。そして、それに沿って研究仮説を立てる。その仮説は、自分が実際に検証できそうなものでなくてはいけない。次に、それを検証するための手段を考える。そして実際に調査なり実験なりを行い、結果をまとめる。


 研究とはそういうものだろう。そして、そのような方法論を学ぶことは生活していく上でもとても役に立つものだ。しかし当時は、そのような方法論を教えることなしに「夏休みの自由研究をやりなさい」と言われた。今も、大方の学校では同じようなものではないか?困るのは子ども、そして親である。


 先日TVで、なぜ「夏休みの自由研究」が出されるようになったかを説明していて、唖然とした。


 もともと「自由研究」は、1947年(昭和22年)から小学校に5年間ほど設けられた教科の1つだったというのだ。しかし他の教科に多くの時間をさかなくてはいけないということで夏休みに各自がすることになったのだ、と。当時の教師の間には「自発的に考え行動する子が育って欲しい」という願いが強くあったこともあり、「自由研究」という形で残された、とも説明していた。


 現在も、ほとんどの小学校で夏休みの自由研究は出されているようだし、中学校でも出されるところがあるようだが、その実態についてはあまり調査されていないとのこと。そもそも「自由研究」は文部科学省のカリキュラムに組み込まれているものではないから、というのが大きな原因のようだが、それなら、なぜこれほどまでに広く「自由研究」が子どもたちに課せられているのだろう?


 そもそも教師は、あるいは文部科学省は、「研究」というものが、なんの予備知識もない児童生徒が簡単にできるものだと知っているのだろうか?悩んで考えるのが成長に役立つ、などと主張する人もいるようだが、そもそも何をどう悩んだらよいかわからない子どもたちも多いのではないか?少なくとも私はそうだった。


 探究心を持つ子に育ってほしい、という思いがおかしいのではない。しかし、研究の方法も教えずに子どもや親に丸投げする、そのやり方や、それでよいと思っている政府や教師の考え方に首をかしげざるを得ない。「子どもができないので、結局親がやりました」という家庭も多いが、その事実を知らないとしたら、教師も文部科学省も無責任だと言われても仕方ない。


 さらに悪いことに、それを「自由」研究だと言う。テーマの選択も自由で、提出するか否かも、「本来は」自由であるという。しかし事実は「強制」であり、提出しなければ先生から責められる。周囲の子の目もある。そのことを子どもたちも親もよく知っている。


 自由だけれども自由でない。そんな詭弁を「ウソをついちゃいけません」などと事あるごとに言う教師が言っている。それでよいのだろうか?


 比較的課題量の少なかった昔でも、私は「自由研究」に悩み、それが夏休み全体を憂鬱なものにした。それが現在も続いているとしたら、それは、子どもたちのことも考えず自分の理想を押し付けたがる教育界の負の遺産だと思う。


 子どもたちが「夏休みの自由研究について考える」という研究をしたらどうだろう。それは、自分たちが受けている教育を考える一歩になるかもしれない。私の息子が、小学校の時にそのことを思いつけばよかったが、その頃の私は自分のことで忙しく、息子の課題のことまで考える余裕がなかった。言い訳にしかならないが、残念なことをした。

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