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  • tsubamekokoro

高橋大輔の舞


 フィギュアスケートを見るようになって7年ほどになる。最初は、特に男子のフィギュアなどは、何が面白いのかさっぱりわからなかった。しかし、妻に付き合って仕方なく見ているうちに、だんだん面白くなってきた。

 私の好きなスケーターは高橋大輔。ソチオリンピックの後、競技を引退してしまったが、未だに彼の演技を超える人は出ていないと思っている。最近は羽生結弦や宇野昌磨なども活躍しているが、ジャンプはともかく、高橋大輔の表現力は群を抜いていた。今も彼の過去の演技を動画などで見ることがあるが、どうしてこれほど見る人を引き付けるのかと、驚き、不思議に思う。

 音楽を自在に氷上で表現する力が、彼にはあるように思われる。彼の舞を見ていると(そう、彼の演技は、「舞」という表現がぴったりである)、まさに音楽が彼に、そのように演技することを要請しているかのように見えることがある。気まぐれな風に翻弄される落ち葉のように、音楽に乗って自然に回ったり、止まったり、突然翻ったりする。かと思うと、静謐な音楽に合わせて、打ちのめされた心がゆっくりと動き始める様が見えることもある。その音楽の表現しているものが、具体的な形となって見えてくる。見えないものが見えてくる。そんな芸当ができるのが、高橋大輔なのだと感じる。

 特に近年、フィギュアスケートでは、難易度の高い回転を沢山プログラムに入れて成功させた者が勝てるような点数付けがされている。そのため選手たちは4回転などのアクロバティックなジャンプを組み合わせることに懸命で、それが音楽にマッチしているか否かなどは二の次に考えているようだ。そうしなければ競技に勝てないのだから、仕方ないのかもしれない。しかしそんな「アイス体操」に陥ってしまうと、フィギュアスケート本来の魅力が半減してしまうと思う。音楽と無関係であるかのような演技を見ると、いたたまれない気持ちになる。

 高橋大輔のもう一つの特徴は、毎年全く違ったジャンルの音楽を表現することにチャレンジしてきたことである。他の選手は、難易度の高い回転の精度を高めるためもあるのだろう、2年連続で同じ曲を同じ振り付けで踊ったりする。高橋はそれを潔しとしない。彼自身はそのことを、「飽きっぽいから」と説明していたように思う。そうかもしれない。しかし、自分が苦手とするジャンルの音楽に挑戦し、それを十分に消化し表現する苦労は大変なものがあっただろう。だからこそ彼の演技は、いつ見ても、切れば血が出るような生き生きとした鮮烈なイメージを与えるのだと思う。

 彼が高い技術を持っていることは確かだが、それ以上に彼の演技には、彼自身の生き方が出ていることを感じる。もちろん他のどのフィギュアスケーターたちの演技を見ても、その人となりが出ていないものはない。その意味で、フィギュアスケートを見る楽しみには、その演技の背景にあるその「人」を感じることも含まれているように思われる。

 高橋大輔が競技を去った今、彼に続くような魅力を持った選手が育ってくることを待ち望んでいる。

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