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精神療法家のあり方


 燕市分水の佐藤内科小児科の佐藤昌子先生から、4月にある勉強会の資料(佐藤先生が世話人をしている)も兼ねて、土井健郎と小倉清の対談を載せた「治療者としてのあり方をめぐって」という本をいただいた。佐藤先生は小児科と精神科の境界領域を学びかつ実践してこられた先生で、クリニック開業時も大変お世話になった。その佐藤先生からいただいた本がとてもよかったので、精神科領域に興味がある人のために、心に残った部分を少しだけ紹介したい。  タイトルの通り、“心の治療とはどうあるべきか”を土井健郎と小倉清というベテラン精神科医が話し合った記録であるが、二人共に曲折を経て精神科医になっていたことをその本で初めて知った。そればかりでなく、その対談に寄稿していた幾人かの精神科医たちも、それぞれの「救い」を求めて精神科を志していたことを知り、私が特別でなかったことを知れたのもうれしかった。  本の中で一番印象に残った件は、「精神療法家になるためには『青年の危機』に似たようなものをくぐらないといけない」、という土井の発言。彼は、「治療者は不安定でいい」という発言で、もう一度そのことに触れている。  とはいえ、医者がそんなに不安定じゃこまる、という患者の声も聞こえてきそうだ。ベテランの精神科医が「児童精神科医を志すものは、青年期の課題を克服していることが必要である」と、ある本に書いていたのも読んだことがある。私はその言葉を思い出しては、自分に精神科医としての資格がないのではないか、という不安に駆られていた。  しかし対談の中での土井や小倉の発言を読みすすめるうちに私は、青年期の課題を克服していなくてもいいのだ、と思えるようになった。大切なのは、自分にはそのような問題があるということを直視し把握(自己内省)しておくこと、そしてその困難に耐えることであることを知った。またさらに、それらのことを通して“少年期・青年期の子どもたちがまさに今経験しているだろう困難を自ら体験する”という、いわば治療上の道具としても使える可能性があることを知った。  「もしかしたら、そのように課題が克服しきれていないことが、かえって精神科医としての可能性を秘めているかもしれない」、などとほくそ笑もうとしても、土井や小倉はちゃんと先手を打っている。いわく、精神療法者は全能感(気の毒な患者を直してやれる、という感覚)を増長させてはならない、と。  もちろんある程度の有能感は治療に際して必要であり、彼らもそれは否定していない。ただ、一人前の精神療法家になるためには有能感とそれを否定される経験の両方が必要なのだ、と言う。 「できそうだという気持ちと、できるに違いないという気持ちと、いや、自分は全然ダメだったと、歯がたたないというダイナミックスをたびたび経験して、それが自分の中で消化されるようにならないと一人前でない」(土井健郎)  だから、と土井は続ける、一人前の精神療法家になるうえで必要なのはきちんと整ったトレーニングではなく、頭も心も柔軟になって「少しルーズになる」ことである、と。ここはよく覚えておきたい。精神科で必要なのはどこかで型にはまった研修を受けることではなく、よく苦しみ、よく感じ、よく考え、その上で「柔らかく」なることなのだ、と。  その苦しみ方にもコツがある、と二人は言う。小倉は、「自分の心を開いてチャンスを待つような努力」が大切であると言い、土井は、「師匠や先輩など、もしかすると自分に何かあるものを与えてくれるのではないかと思える人を見つけること」、であり、苦しみが耐え難いものである時は「友達でも先輩でも先生でも家族でもいいから、とにかく人に相談すること」であるという。まさに、それらに尽きるのだろう。  その本の終わりの方で小倉は、自分が師事した米国の精神科医カール・メニンガーの言葉を紹介している。 「Dr.Karlは人世は常に大変なことの連続であって、そこで大切なことは決して希望を捨てないことだという。希望を捨てないことがすべてだという考え方は今現在にも通じることだろう。」(小倉清) 希望」ということを治療の柱としている私にとって、これ以上ないくらいのエールをいただいた気持ちに、勝手になってしまった。


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