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3月のライオン(続)


 前回のブログで書いた「3月のライオン」第2シリーズ第4話の続き、第5話を見ていて気になる箇所があった。

 桐山零がお世話になっている教師、林田先生に、ひなたがいじめられている件でどのように対処したらよいかを相談した時の教師の言葉だ。彼は言う。

 「大事なのは、ひなちゃんがどういう風な解決を望んでいるかを、よく聞くことだ」

 異論はない。いじめにあっている子の気持ちをよく聴き尊重することは、まず大切なことであり、それをはっきりと言える林田先生はとてもいい先生、尊敬すべき先生だと思う。

 しかし、少しひっかかる。ひなたは、いじめられていた佐倉ちほをかばっていた。その佐倉ちほは、さらにいじめられることを恐れて、自分がいじめられていることを公にして欲しくない、とひなたに懇願した。「ちほの気持ちを汲んで事を大きくしないこと」が、本当にその後のちほのためになっただろうか?

 いじめを公にせず問題を徹底的に追求しなかった結果、ちほへのいじめはエスカレートし、結局学校を去ることになった。まだ自殺しなかっただけ良かったくらいだ。

 問題を大きくしたくないという本人の気持ちは、よく汲む必要があるのは当然だろう。本人としては、これ以上傷つきたくないし、仲間はずれにされたくないのだ。

 しかし、まさにそのために、彼女が傷つかないために、徹底的に事実を明らかにし、それ以上いじめが続かないよう教師、学校、親、そして子どもたち自身が対策を考え、実行していく必要があったのだと思う。彼女の本当の望みである、「傷つかず、仲間はずれにされない」状態を実現するために、彼女の「事を大きくしない」というさしあたっての希望は保留にする必要があったのだ。

中井久夫という私の尊敬する精神科医は、子どものころにいじめに遭った自らの体験も踏まえて、ある程度以上にいじめが進むと、大人が「誰かにいじめられていない?」と聞いても激しく否定したり怒ったりすると書いている。それは、「何を今さら」「もう遅い」という感覚でもあるが、それだけではない、と分析する。

 『 自分のことは自分で始末をつけるということは、人間としての最後のイニシアティブの感覚です。ここで大人に「もう自分はだめだ」と自分を委ねてしまうことは、大人の介入によって自分に最後に残った感覚をあてどなく明け渡してしまうことです。激しい否定と怒りは、そのときに感じるだろう喪失感を先取りするためでもあるのです。

 開け渡しても得るものは期待できそうにない。それなのに自分の中に残っている最後のパワーをむざむざ明け渡してしまう。この喪失感は、そうした目に遭ったことのない幸福な大人には理解し難いものかもしれませんが、ぜひ理解しなければならないものです。』 

               (「いじめのある世界に生きる君たちへ」 中井久夫)

中井久夫の言葉を胸に置きながら子どもから話をよく聞き、その上でどのような対処が必要なのか、大人たちが何人か寄り集まって知恵を出し合いながら対策を考えなくてはならないと思う。大人がひとりで対応できることは少ないだろうから。

いじめに立ち上がった大人たちの実話

 そもそも、大人も子どもも力を合わせて対策をとり、いじめを途絶させることは不可能なのだろうか?そうではない。いじめに対して敢然と立ち上がり、教師や学校、子どもたちを動かして、実際にいじめを途絶させた親の実話が報告されていた。以下のレポートである。

http://toyokeizai.net/articles/-/179419

 ポイントはいくつかあると思う。

① 普段から親子が本音を出し合える関係を作っておく。またスマホなどいじめの手段に使われやすい機器の使い方について親子で決め事を作っておく。

② いじめが疑われたら、親は本気になって立ち上がる。いじめの証拠(シッポ)をつかむため、LINEなど子どもたちが使っているメディアも使いこなす必要がある。また、味方になってくれる生徒(友人)を見つけることも鍵になる。

③ 担任や学校が適切に対処しなかった(できなかった)ら、教育委員会に訴えることを躊躇しない。それでもラチがあかなかったら(そんな例が多いのはニュースなどでもご承知の通り)、マスコミに訴える。

 つまり、問題があるということを明確にし、白日の下にさらすことだ。そして、これらの困難な作業を行う際のエネルギーとなるのは、絶対に子どもを守る、という親および周囲の「大人」の決意だと思う。

 勘違いしてはならないのは、いじめに対して立ち上がることとモンスターペアレントになるのは全く違うということだ。モンスターペアレントは、些細なことを大げさに言い立てる。しかし、いじめは些細なことではない。不登校や、ひどいときは自殺にまで直結する。モンスターペアレントの言い分に賛同する人は少ないだろうが、いじめに対して義憤を感ずる人は多いはずだ。

 ただ、事なかれ主義の横行する日本の社会では、いじめの問題を表面化することにすら「抵抗」を覚えるひとが多いことが問題だ。そんな時は、自分の心に問うてみたい。その問題に対して「行動しない」ことを、他の人に胸を張って説明できるだろうか?堂々と、「それでよい」と言えるだろうか?臆病風に吹かれての決断でなかった、と言明できるだろうか?

 だれでも自由に伸びやかに生きたい。そのために必要なことを、少しずつ毎日やっていきたい。その積み重ねがよい人間関係や世の中をつくるのだと信じたい。


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