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おもしろき こともなき世を おもしろく


精神科をやっていると、「生きることの意味」を問われることがある。ある時は直球勝負で、またある時は間接的にじんわりと…。そのたびに、しどろもどろ自分の考えを話す。

 なぜ生きるのか。シンプルな疑問だが、答えは簡単には見つからない。さらにその問いは、他の大きな問題とも深く関わってくる問いでもある。例えば、なぜ自殺はまずいのかという問い、あるいは、なぜ人を殺してはいけないかという問いなど。

 最近、座間で9人を殺したという白石容疑者の動機がマスコミで詮索されている。はっきりとしたことは、まだわからない。しかし彼の経歴や殺害の仕方からは、彼の持つ深い虚無感のようなものが伝わってくる。彼に生きる意味を問うたら、「意味なんかあるはずないよ」とあっさり答えそうな気がする。

 生きることの「意味」は、私も知らない。「生命が活動を維持すること」に「絶対的な価値」があるかと問われたら、ないと思う、と答えるだろう。しかしそれは、生きることが「私にとって」意味がない、ということとは違う。「生きる」ことは、私にとって「全て」である。私だけでなく、それはほとんどの人にとって真実であろう。いくらエゴイスティックに聞こえようと…。 

 さらに生きることの「意味」を複雑にするのは、ほかの人間の存在がなければ、私の命は「無」と等しくなってしまうという事だ。ひとり地球上に生き残っても、生きる「意味」は消滅する。他の人間がいてこそ、はじめて私の命は生きる「意味」を持つ。ここが大切なところだと思う。自分が意味ある生を生きるためには、他人の存在、助け、人々との相互作用を必要とする。究極のエゴイストは生きる意味を失う。

 私がいること、私が生きていることは、奇跡以外のものではない。宇宙に他のどんな奇跡的なことがあろうと、ビッグバンがあろうと、宇宙の果てがなかろうと、宇宙が終には冷却し無に近い状態になろうと、なにがどうであれ、私が私として存在するこの一瞬は奇跡である。

 しかしその事情は、他のどの人にとっても同様である。例えば、このブログを読んでくれているあなたが今生きているということは、全くの奇跡、前代未聞、空前絶後、天地開びゃく以来の初めての出来事なのだ。そしてその奇跡はほんの僅かな時間だけ続く。長くてもせいぜい百年足らず。その後は、決して「私」は再び現れることはない。決して…。

 その大切な人生の「一回性」(一度しかないこと)を、本当のところ、私はよくわからない。実感できないのだ。若い頃から生きること、そして死ぬことを考えてきたつもりだし、医者として人の死には立ち会ってきた。しかし、自分が死ぬということは、わからない。私だけが特別物分りが悪いわけではないと思う。人間は「自分が死ぬ」ということを本当には理解できないように作られているのではないか、と最近は思っている。それがゆえに幾多の宗教が死後の世界を様々に想像してきた。人は自分が死ぬということを実感できないがために、宗教が「死」の具体的様相を提示する役割を果たしてきたのだと思う。

 奇跡的な生を与えられ、しかも死を本当には分かり得ない私にできることは、よく生きる努力をすることだけである。なぜか「生きてしまっている」自分が、この奇跡を十分に味わい尽くせるよう努力するだけである。偉人たちの権威を借りるようで恐縮だが、ブッダも孔子も死後の事を問われても答えようとしなかったのは、彼らが誠実だったからではないか。彼らにして、なお「死」は把握し難かったのだ。いわんや…。

 タイトルに選んだ「おもしろき こともなき世を おもしろく」は、27歳で結核に斃れた江戸時代の尊皇攘夷の志士、高杉晋作の辞世の句(死ぬ間際に詠んだ句)の上の句である。下の句は、彼の看病に当たっていた野村望東尼が付けたと言われている。

おもしろき こともなき世を おもしろく

              すみなすものは 心なりけり

 「たいして面白い事もなさそうなこの世だけれど、考え方次第では面白くもできるよ」、という意味だろう。まさに人生の真実をついている。それだけでなく、自分の考え方を少し変えてみることで気持ちが変わってくる、というのは認知行動療法のエッセンスでもある。世の中が自分の思い通りに動かず、少しやけっぱちになっている若い高杉晋作を、年上の望東尼がたしなめているような雰囲気が感じられるのもいい。私の好きな句の一つだ。

 世の人々が、全く偶然に奇跡的に与えられた自分の命を本当に愛しんで生きるようになれば、少しずつ世の中は平和なものになるのではないだろうか。そんなことを夢みて、嫌なことも沢山あるこの世ではあるけれど、楽しんで生きていきたい。


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