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  • tsubamekokoro

音楽、この不思議なもの


 近年にない大寒波に襲われて、クリニックの行き帰りの車を運転するのも怖い日々が続いている。夜暗い道を走っていると、吹雪で先が見えなくなる。先を照らすはずの自動車のライトが無数の雪片に跳ね返され、雪のカーテンに包まれてしまった感じだ。五里霧中ならぬ五里雪中。ハンドルを握る手がこわばり、息が苦しく感じられる。

 そんな中で、いつも車の中でかけっぱなしにしているバッハ無伴奏チェロ組曲が突然聞こえてくる。普段は流れていても気づかないくらい慣れてしまっている曲だが、なぜか切羽詰まると聞こえてきて心を救ってくれる。この暗く、底なしに感じられる雪の闇と同じ深さで、しかもやさしく心を包んでくれる。

 音楽が心や体によいことはよく知られている。様々な疾患に対するリハビリにも音楽を使った治療が有効であることが知られている。最近も、有名な医学雑誌に「音楽はうつの治療に有効である」という報告がされていた。今更という気もするが、数字で実証されたことは意味があるのかも知れない。

 しかし、と思う。音楽とはそういうものなのだろうか?何かに有効だったり有利だったりするから人は音楽を好むのだろうか?私にはそうは思えない。リハビリに有効だったり効率が上がったりするのは、いわば副産物であり、音楽はそれそのものが人にとって意味のあるものなのだと思っている。人類は、何故か、音楽というものを必要とするように進化してきたのではないか、と思えるのだ。

 もしかして原初の音楽は、犬や狼、あるいはホエザルたちの遠吠えのようだったかもしれない。彼らが声を合わせて遠吠えするのは、何等かの「共感」や「一体感」を求めてではないか、と私には感じられる。人ではそれが複雑化し、濃やかな感情の共有がされるようになった。それが「音楽」なのではないだろうか?これは全くの憶測であるが、少なくとも私が音楽に求めるものは、その通りである。何らかの「共感」や「一体感」が大切なのだ。

 精神科に来る人のほとんどすべての人は、「共感」や「一体感」に関する悩みを抱えている。従って音楽が精神的な支えになるのは、理の当然と思われる。

 以上のことは、いわば無用の考察かもしれない。しかし、音楽に時に酔い、時に圧倒されながら、その不思議をいつも感じさせられる、そんな感覚自体を誰かと共有したい気持ちが私の中にある。


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