テレビをつけたら、たまたまドラマをやっていて、そのまま引き込まれて最後まで見てしまった。NHK山口放送局が作った「朗読屋」というドラマだった。山口出身の中原中也の詩がドラマの中に散りばめられていて懐かしかった。
とりわけ気になったのが、最後に朗読された「月夜の浜辺」という詩。
月夜の晩に、ボタンが一つ 波打際に、落ちていた。
と始まるその詩。音楽になぞらえれば、それを主題とし、続く
それを拾って、役立てようと 僕は思ったわけでもないが なぜだかそれを捨てるに忍びず 僕はそれを、袂(たもと)に入れた。
が副題となり、それらが少し形を変えて繰り返されるそのリフレインが、波に揺られているようで心地よい詩だ。最後は
月夜の晩に、拾ったボタンは 指先に沁み、心に沁みた。
月夜の晩に、拾ったボタンは どうしてそれが、捨てられようか?
と終わる。ここで、国語の授業なら「なぜ拾ったボタンを捨てられなかったのか、考えてみましょう」ということになるのだろう。しかし大事なのは、詩の中の主人公(おそらく中原中也自身)が、「その時なぜかボタンを捨てられない気持ちだった、ということそのもの」、なのだろうと思う。
村上春樹の本に「使いみちのない風景」という写真+エッセイ集がある。なぜだかわからないが忘れられない、何ということのない、しかし自分にとってだけ特別な風景がある、ということが言いたくて編まれた本だと思うが、それなどは、まさに中也の「なぜか捨てられなかった、月夜の晩に浜辺で拾ったボタン」と同じなのではないだろうか。
おそらく、中也の「ボタン」や春樹の「風景」は誰にでもあるものだろう。そのような、自分にとってだけ大切なものを、自分の懐深くいつまでも持ち続ける、そのような人生を豊かな人生と呼ぶのだろう。
*** もしよかったら、今回取り上げた村上春樹の本について、もう少し詳しく書いたブログも読んでいただけたら幸いです ***
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