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開院記念日

更新日:2019年10月2日

今日は、いくつか象徴的出来事があった。


 1つは患者紹介に関すること。当院で充分な医療が提供できないと判断した場合、より機能の充実した病院に紹介するようにしているが、特に子どもの場合、紹介先が少なくて困る事が多い。今日もある子どもを紹介したくて幾つか病院に問い合わせてみたが、どこも満杯で受け入れが1ヶ月以上先になりそうだった。仕方がないこととは言え、残念だった。


 会社関係のトラブルで休んでいるので、診断書が欲しいという患者もいた。診断書に関しては悩むことが多い。私も「休むことが妥当である」と思える場合は問題ない。


 しかし、最近増えているのは、休むことが妥当とは思われない、あるいは診断書を書くことが妥当とは思われないケースである。その場合、診断書を書かないと、患者と医師の関係が崩れやすい。精神科の治療は、患者―主治医の信頼関係が非常に大切なので、それが崩れると治療にならない。実際にそれで治療を中断した患者さんは何人もいる。が、それも仕方がないと思っている。私は私の信ずる治療を行うしかない。そこが崩れてしまったら、私の医師としてのアイデンティティに関わるだけでなく、精神科医療自体の信頼を損ねることになる。「医者はいい加減に診断書を書きすぎだ」、と。


 今日は、強い虚しさを訴える患者さんたちも何人かいた。家庭内の問題で苦しんでいる人に対しては、どうにか解決できないかと一緒に考えてみる。しかし、なかなか良い解決策が見つからない。患者の虚しさは、私自身の無力感、虚しさとなって覆いかぶさってくる。特に解決にお金が必要になってくると、どうしようもないことが多い。たかが金、されど金である。


 特に大きな問題はないのになぜか虚無感につぶされそうになっている人もいる。これも困ってしまう。虚無感とはすなわち「生きる意味が実感できない」ということだろう。「人は何故、何のために生きるのだろう」とはそもそも哲学の根本問題である。おそらく万人を納得させられるような理由などないだろう。では、なぜ私達は生きることに執着するのか。虚しい人間は死んでもいいのか?虚しさを解消するよい方法はないのか?今日も診察室で考えあぐねた。私にとっても、おそらく永遠に解決しない大問題だ。


 診察はストレスがかかる。私はできた人間ではないので、ぐったりと疲れ、誰かに愚痴をこぼしたくなる。ストレスのはけ口にされる職員や妻は、さぞかし大変なことだろう。


 開院して今日で丸2年が経った。記念日だからといって特別な強い感慨はない。しかし、大きな問題もなくやってこれたのは妻や職員の力があってのことだ、とは思う。特に妻は、開業以前から、各関係機関への対応も含めて医院経営に関する種々雑多で煩雑な業務一切を負って来てくれた。口にはしないが、感謝している。

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