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専門家の責任

更新日:2021年2月27日


 コロナの第3波が収まる兆しを見せ始めている。ワクチン接種も今月から順次開始するべく準備が始められているという。この調子で少しずつコロナ禍から抜け出せていくことを願う。


 2020年11月初旬に現在のコロナ第3波が始まった頃は、もはや感染の勢いは止められないだろうと思った。当クリニックでも、すでに行っていた消毒に加えて、受付や診察室に飛沫飛散軽減のためのボードを取り付けた。


 精神科は、人と人との距離を縮め保つことが最も大切な役割であると思っている。その診察室に、透明であるとはいえ、仕切りを設けるのは大変に不本意なことであった。しかし、今は仕方ない。


 感染拡大の勢いがすでに明らかになっていた2020年12月初旬、たまたま週刊新潮の「報道されない『高齢者の死亡率激減!』 演出される『医療崩壊』」と題する記事を読んだ。京大の宮沢准教授など、公的な医療機関のウィルス学の専門家と言われている人たちへのインタビューをまとめたものだった。


 彼らは、第3波は下降フェーズに入っていると言明し、日本政府は諮問委員会の尾身茂氏ら一部の「専門家」たちに扇動されて厳格な感染症対策を取ろうとしているが、それは日本の経済状況をさらに悪化させる、と主張していた。


 私はウイルス感染の専門家ではないが、新型コロナウイルスの性質(軽症者が多いこと、感染力がある程度強いこと、変異しやすいこと)を考えても、第3波の勢い(ベクトル)を考えても、下降フェーズにあると考える根拠はどこにもないと考えていた。


 彼らの予測が当たりそうにないことは、12月初頭の感染者増加の傾向からみても明らかだったので、彼らの発言には驚いた。専門家を称して公の場で発言するからには、その責任は当然とらなくてはいけない。予想がハズレた場合、彼らはその責任をどのように取るつもりなのだろうと思った。


 それから少なくとも1ヶ月半は、彼らの予想とは異なり、感染は拡大増加した。医療状況に関しては、依然として逼迫した状態が続いている。しかし彼らウイルス専門家もそれを特集した週刊新潮も、自分たちの予測が大きくハズレたことに対する何らの弁明もない。それでは無責任と言われても仕方ない。


 近年、それでなくても専門家の権威が失墜している。コロナウイルスに限っても、昨年の流行初頭の日本の感染症専門家たちの見通しの甘さ、不手際、不定見は目に余るものだった。その無能さは、例えば有効な手立てを次々と打ち出して感染流行を防いで「台湾モデル」として国際的に高く評価された隣国台湾と比べると、明らかなものだった。


 日本の遅れが露呈してから約1年が経った。考え方を改め、制度的な問題も含めて対策を立てるには十分な時間があったはずだ。なのにこの有様である。この国は一体何をしてきただろう。これ以上コロナ流行に苦しまないですむためには、「専門家」や政治家たちが何を言い、何を行い、その結果どうなったかを見極めていかなくてはいけない。


 私は「専門家」と言われる人たちが、あまり好きでない。それは、人を騙す必要や意図があるときに「専門家」が活躍することが多かったからである。例えば、原発の安全性などを強調する時には常に「専門家」と言われる人たちが引っ張り出されてきたように。そして現在も、その構図は変わっていない。


 「専門家」が強調されるデメリットは、そのように政治的に利用されるだけではない。専門性を高めることは、総合性、全体性を失うという対価を払って行われることが多いので、危険である場合も多い。専門バカという言葉がそれを象徴している。医者なら、臓器を見て患者を診ず、ということになりがちだ。


 私も精神科を標榜して診療を行っている以上、精神科疾患にはそれなりに精通していなくてはいけない。しかし市井に生きる者としての感覚は失わないでいるつもりだ。逆に、それが失われては市中に開業する精神科医としては失格だろうとも思っている。


 自分は「専門家」であるという勘違いをできるだけしないこと、しかし自分の行いには責任を持つことが、よりよい仕事をする条件なのではないだろうか。


 予測が外れること、あるいは私の場合なら「誤った診立て」をすること、はあるだろう。問題は、その誤りを認め何らかの責任をとることである。それが「専門家」が取るべき態度だろう。そうでなくては、ただのホラ吹きである。「専門家」が「ホラ吹き」の代名詞にならないよう気をつけていきたい。

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