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  • 執筆者の写真Admin

ホームページ作成裏話: 希望はどこにあるか

更新日:2019年8月15日


 この度ホームページを立ち上げた段階で、何人かの友人に読んでもらい感想をいただきました。考えさせられる指摘がいくつもあったので、ここで紹介します。

1.トップページに院長の写真は不要。だいたい表情が暗い。

 何枚もの写真の中から、まだ見れそうなものを選んだつもりでしたが…。もう少しマシな顔で写るよう努力します。

 若さとは、それ自体で魅力のあるもので、若さが自分の弱点をカバーしてくれるところがあります(若い人には、まだわからないかもしれません)。しかし、歳をとるとそうは行かなくなります。歳を取ったら自分の顔に責任を持たなければならない、とはそういう意味も含まれていると思います。自分の顔写真を公開するのは大変に気が引けるものでしたが、「責任を取る」つもりで出しました。

 まれに、しげしげと鏡をみることがあります。「ここに写っている疲れた男は誰だ」と、いぶかしい思いにとらわれます。自分を客観視することは難しいことです。

2.「希望」とはなにか。そんなに簡単にみつかるものか?

 基本的な希望は、誰もがもっているものです。それは、希望をなくした人間がどうなるかを記した、例えばV. フランクルの「夜と霧」などを読むと明らかです。希望をなくした瞬間には生きる意味を失い、食べることも動くこともなく刺激にも反応しなくなり、そのまま短時間で死に至る。生きているということは、すなわち、希望をもっているということなのです。

 もちろん、希望の実現の可能性はそれぞれに異なります。おそらく、ひとは実現可能性の高い短期的目標、困難かもしれないが実現させたい長期目標、その中間の中期目標が必要なのではないかと思います。それらが明確になってくれば、より生き生きと生きられるものだと、私は理解しています。

 しかし、その希望とはいったいどのようなものなのでしょう?貯金通帳の金額が増えるのが楽しみだ、という人の「希望」とは「金が貯まること」なのでしょうか?私には、そうは思えません。「金」は自分の命や生活の安心の象徴だったり、権威や権力、自由、可能性の象徴だったりするのではないでしょうか?そうすると、その人の本当の希望は、「のびのびと自分の可能性を追求できること」になるのではないでしょうか?そのように考えてゆくと、希望は人それぞれ様々な形をとっているけれど、ほとんどの人の根底にある希望は似たようなものだ、ということにならないでしょうか?

 診療では、根底にある希望を確認し、さらに、「その人」にとって、今「何」をすることが、その根本的な希望を満たすことに繋がっていくのかを確認していきたいと思います。それは、ある種の共同作業というべきものでしょう。

 そこで大切なのはーいつも繰り返し患者さんには言うのですが)ー「焦らないこと」です。患者さんはたいてい焦っているものなので、焦るなといっても難しいと思いますが、薬などの助けを借りながら、ゆっくりと確実に歩みを進めたいものです。

3.子どもが読むには難しいのではないか?

 これは痛い指摘です。私の視点が十分に子どもの目線になっていないからだ、と反省します。中学生以上なら理解できるよう、用語もできるだけ噛み砕いて書いたつもりですが、全く不十分でした。

 今後、ていねいな用語解説をつけるつもりです。また、子ども向けページも作りたいと思っています。ただ、今は開院の準備がとても忙しいので、まだしばらくはこのままかも知れません。悪しからず。

4.対象疾患名だけ羅列されても分からないし、怖くなる

 これも失礼しました。そのとおりだと思います。心療内科や精神科を訪れる患者さんは自分の症状をネットなどで調べてくる方も多いので、サイトをスッキリさせるためにも、細かな病気の解説は省きたかったというのが本音です。

 しかしむしろ、症状を挙げて、それに対してどのようにしたらよいかを説明するべきだったかもしれません。診療所のホームページとは別に疾患解説のサイトを立ち上げることも考えていますので、ご期待下さい。


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