top of page
  • tsubamekokoro

そして父になる


 カンヌ映画祭で是枝裕和監督が最高賞を受賞した。それを記念して、彼が監督し俳優の福山雅治が主役を演じた作品「そして父になる」(2013年)がテレビで放映されていた。しみじみとした、よい作品だった。

 その作品では、産科病院での新生児取り違え事件から、血のつながっていない子どもを実の息子だと信じて育ててきた双方の両親および子どもたちが「親子ってなんだろう」「子どもを育てるとはどういうことなのだろう」と悩む。

 福山雅治が演ずるのはエリートサラリーマン。仕事を精力的にこなし、家族に対しても厳しい。他方リリー・フランキー演ずる町の小さな電気屋の主人は、優柔不断で女房の尻に敷かれている、だけれど子どもたちと体当たりで遊ぶ父親。

 二人の子育てに対する態度の違いがよく現れていた場面があった。福山扮するサラリーマンが、自分は自分にしかできない仕事があって子どもに費やす時間がなかった、と弁解する。それに対してリリー・フランキー扮する電気屋は、

「父親だって、取り替えのきかない仕事やろ!」

と反論する。さらに彼は、

「子育ては時間やろ!」

と言い放つ。どれだけ子どもと共に時間を過ごしたか、その時間の長さが大事だというのだ。学はないが、しっかりとした人生観をもつ庶民的な電気屋の親父。彼との関わりの中で、自分が子どもを十分に愛して来なかった事に、エリートサラリーマンはようやく気付く。

 子供時代から現在の会社での仕事まで一貫して優等生で通してきた福山が扮するサラリーマンは、自分の息子が自分のように出来がよくないことが、ずっと不満だった。そのことを、子どもの方は察知していた。

 息子が電気屋の親父に引き取られていった後、福山は何気なく息子が撮った写真を見つけて、息子が育ての親である自分に対して愛情を抱いていたことを知る。同時に福山は、自分も父親に愛されて育ったとは言えなかったけれど、父親を愛していたことに気づく。自分の経験した「親への一方的な愛」の悲しみを重ね合わせることによって、息子の悲しみを深く感じた福山は、電気屋を訪れ、十分に愛さなかったことを息子に謝り、和解する。

 映画では家族とは「血」なのか「過ごした時間」なのか、ということが直接のテーマになっている。是枝監督の結論は明らかなようだ。

 3年前に亡くなった思想家の鶴見俊輔も同じ考えだった。彼は、我々にとって最も重大な家族というものは、「その他の関係」であるという。ここでいう「その他の関係」とは法律用語で、「血縁ではない関係」という意味らしい。彼は言う。

「深く助け合うものが『家族』なんです。そういう形を心において、いまの自分の家族をつくっていく。もしそれが、60年ともに暮らしてきた人だったら、そのなかに日々の新しい表情がでてくることを追い求める、その心の傾きを持つことですね。そうすれば、別のものができてくる」 (鶴見俊輔共著「いま家族とは」所収)

 実の母親と常に戦い、地獄のような幼少期を過ごしてきた鶴見の言葉であるだけに胸に響くものがある。血のつながった親に十分愛されて育つことが、最も望ましいことであるのは確かだろう。しかし、それが望めない場合、深く助け合う「その他の関係」が必要なのだ。それを「家族」と鶴見は呼ぶ。

そして結局、誰でも人は一人になって死んでゆくものである。その死の枕元で自分を助けてくれるのは、連れ合いだったり、お嫁さんだったり、あるいは看護師さんだったりヘルパーさんだったりと、血のつながりのない「その他の関係」の人である可能性が高い。その意味でも、「家族」とは「その他の関係」と言っていいのではないか、と鶴見は言う。「遠い親戚より近くの他人」というわけである。

 診療していると、忙しく働きすぎて、あるいは自分の事にかまけていて、子育てまで十分に手が回らないお父さんやお母さん方が多いことに気づく。親こそは取り替えのきかない仕事であるということ、どれだけ子どもと一緒に心を合わせて時を過ごしたか、ということが大事なのだということ、あとで後悔しても始まらないのだということ、を心に刻みながら生きたいものだ。子育てに後悔がある私は、是枝監督の作品を観て、しみじみそう思った。


閲覧数:17回0件のコメント

最新記事

すべて表示

夏休みの自由研究

夏休みが終わろうとしている。外来に来る子どもたちに、夏休みの宿題が終わったか聞くと、自由研究が終わっていない、と答える子も多い。それを聞くと、私もいつも「自由研究」には困っていたことを思い出す。 小学校の高学年の頃、家の近くを流れる栖吉川の匂いがだんだん臭くなってきたのが気になっていた。とくに夏の水かさの減っているときは、醤油色の水がひどい臭気を放ち、魚が死んで浮かんでいることもあった。 その頃は

戦争でコロナ禍を解決する

現在すでに日本の武器は世界に輸出され人を殺しに役立っている。その意味では、ひとり遠藤氏を「人非人」呼ばわりすることはできない。今回の氏の暴言も、それらのことを子どもたちと一緒に考えていく教材にするならば、少しは教育に資するものとなるかも知れない。

昆虫カタストロフィー

赤とんぼは、誰でも知っている童謡のタイトルになっているように、日本のふるさとの象徴であり、日本人の心象風景の原像をなすもののひとつと言ってよいだろう。その赤とんぼが消えつつある。

bottom of page