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答えの出ない事態に耐える力

更新日:2020年8月6日

 困ったことや分からないことがあるのは不快なものだ。音楽でいえば不協和音が鳴って¬いる状態に当たるだろうか。その不快感から逃れるために、人は問題の解決を模索する。めでたく解決すれば、やれやれと安堵する。人は長いこと不協和音に耐えられるほど強くはないようだ。


 外来で患者さんと話していても、問題が早く解決されることを望む人が多い。しかし、すぐに解決できることは少ない。そもそも簡単に解決できるような問題だったら、医者の所まで来なかっただろう。薬を使うことも多いが、その薬にしても魔法のように効くわけではない。


 ここで少し立ち止まって考えてみる。困難は“すぐに”解決できた方がよいのだろうか?音楽にしても、不協和音の少ない穏やかな名曲もある。しかし、そのような曲は概ね短い。穏やかな曲がずっと流れていたら、単調すぎて変化を求めたくなるのではないだろうか?人生における「問題」も、生きていくのが嫌になるほどの強い困難をもたらすものでなければ、変化や彩りを添えてくれるものとして、それなりに必要なものなのではないか?


 その、問題をすぐに解決“しない”能力を、「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼び、本に著した人がいる。ベテラン精神科医の帚木蓬生だ。彼は、数年前に「ネガティブ・ケイパビリティ」というタイトルの本の中で、次のように書いている。


 「ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく、謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんの、どうしようもない状態を耐え抜く力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して、耐えていく持続力を生み出すのです。


 自分の中の、あるいは、自分と周囲との間の「不協和音」を大切にしよう、ということだろう。スキージャンプで、地面スレスレにしかし何とか着雪しないで持ちこたえているようなイメージが喚起される言葉だ。


 帚木が著書の中で書いていたように、「ネガティブ・ケイパビリティ」の概念は英国の詩人ジョン・キーツに淵源する。しかし、キーツは「ネガティブ・ケイパビリティ」の語を精確に定義して用いたわけではない。友人に書き送った手紙の中で、シェイクスピアのような創造的な人間は如何にして偉大な作品を書いたのか、という疑問についての考えを述べた件のなかで「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を用いた、それが後世の人に受け継がれたようだ。そんなふうにして“ちょいと”使った言葉が世に残ることに、キーツのすごさがある。


 さてその「ネガティブ・ケイパビリティ」であるが、帚木はその「忍耐」という側面を強調している。だから彼は、

「運・鈍・根は、ネガティブケイパビリティの別な表現と言っていいのです」

とまで言い切る。根性論的「ネガティブ・ケイパビリティ」と言ってもよいかもしれない。


 もちろんキーツ自身も「耐える」ことの大切さを強調している。しかし彼は一方で、「ネガティブ・ケイパビリティ」とは「カメレオン的特性」なのだとも言っている。分析的、詮索的な前向きの思考を眠らせ、静けさの中に周囲と同化し、「花が花弁を開く」ように自然でいられる能力、それを称して「ネガティブ・ケイパビリティ」と言っているように読める件がある。シェイクスピアが偉大な劇作家であったのも、劇の人物たちに自分自身を同化させることができたからではないか、とはっきりと書いている箇所もある。


 すなわちキーツは、「ネガティブ・ケイパビリティ」の根性論的側面とカメレオン的側面の両方を記述している。しかし、彼がはっきりとそのことを意識していたかどうかは不明だ。先ほど書いたように、キーツはどこかに出す論文、公にするための文章で「ネガティブ・ケイパビリティ」の語を用いたのではなく、彼の望ましいと思われる生き方を親しい友人に説明するために、ただそれだけのためにその語を用いたのだから。


 仕事でも学業でも趣味でも人間関係でも、ある程度(あるいは相当長い間)耐えなければ花開かぬことは多いと思う。しかし、単にじっと耐えていれば必ず成果があがる、ということでもないだろう。仕事でも人付き合いにおいても、自分のこころを開いて、対象なり相手なりに融合・同化することなしに、よいものは生まれないと思われる。その意味では、同化的カメレオン的ネガティブ・ケイパビリティも状況改善のためにはどうしても必要な能力だと思われる。どのようなことでも、自分ひとりで生み出せるものなど、ほとんどないと言ってよいのだから。


 帚木は「ネガティブ・ケイパビリティ」の概念を、ある医学雑誌にMarguliusというアメリカの医師の書いた論文「Toward Empahy(共感に向けて)」で初めて知ったと書いていた。その論文の副題には「どのようにしたら人に共感できるのか」とある。精神科医であるMargulius医師が自分にとって切実な問題を取り扱ったものだった。


 その中でMarguliusは、キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」概念の「カメレオン」的側面を利用し、「新たな事態に対して心を開くこと。考えるよりも感じること」、言い換えれば「一旦、観察者の自己を無化すること」が、「共感」に至る第1ステージになるのではないか、としている。


 その上で、第2ステージとしてMarguliusは「ポジティブ・ケイパビリティ」が必要になる、としている。それは「感情移入する」という能動的な姿勢であるという。そしてそこではむしろ「観察者の自己を引き伸ばし、他者の中にまで入り込み融合する」能動性が必要になってくるのだ、と続ける。これがきわめて高度な能力であることは言うを待たない。問題は、これがキーツのいう「ネガティブ・ケイパビリティ」でないのか、というところだ。たとえば、キーツが手紙で書いていた

 「雀が私の窓辺に来たなら、私は雀になりきって、砂粒をくちばしでつつく」

という状態、すなわち雀になりきる能力は、カメレオン的「ネガティブ・ケイパビリティ」と言うべきなのか、あるいは、雀に感情移入できて雀の気持ちになりきれたのだから「ポジティブ・ケイパビリティ」というべきなのだろうか?


 英国の詩人キーツがの生み出した「ネガティブ・ケイパビリティ」が非常に大切な概念であることは確かだ。しかしまだ、よく整理されたとは言い難い状態にある。ただし、このわからない状態に耐えながら、キーツの頭にあったことを、彼の書き残したものを参考にしながら考え続けることが、即ち私のネガティブ・ケイパビリティを育むことに繋がるのだ、とは感じている。


 情報化の進む現代において私達は、常に「知識」を得たがっているし、また「知識」で物事は解決するのではないか、と思っているところがある。ちなみに帚木蓬生は、そのような問題解決能力を「ポジティブ・ケイパビリティ」と呼んでいる。そして彼は、「ポジティブ・ケイパビリティ」も大切だが「ネガティブ・ケイパビリティ」は、それに負けず劣らす大切な能力だ、と論ずる。帚木の「ポジティブ・ケイパビリティ」の概念は、Marguliusのそれとは異なるものであると思われるが、彼の論旨はそれなりに明快である。


 冒頭の、患者さんとのやりとりに戻ると、悩みをすぐに解決できないことは帚木氏のいう「ポジティブ・ケイパビリティ」を欠いている状態、ということになる。しかしその時、患者さん自身が「ネガティブ・ケイパビリティ」を発揮しながら、例えば自分を相手の気持ちに同化させたり、あるいは自分と同じような悩みを持っている人と共鳴しあったりしながら、答えや解決のできない状態に耐えていったらどうだろう。もしかしたら、すぐに解決していたら垣間見ることのできなかった「新たな世界」へ入る鍵を手に入れることになるかもしれないのだ。


 このように考えてくると、「ネガティブ・ケイパビリティ」を発揮することは、自分を新たにする「ポッシビリティ(可能性)」を高めることにつながる、ということがわかってくくる。その意味でも、キーツの提唱した「ネガティブ・ケイパビリティ」は、曖昧ではあるが大切で魅力的な概念だと感ずる。



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