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イチロー的生き方

更新日:2019年8月15日


 私のブログを読んで下さっている数少ない読者の一人から、前回のブログの「ソリッド な生き方というのは、具体的にどのようなものか」と質問された。

 「ソリッドな生き方」で真っ先にイメージするのは、哲学者のイマニュエル・カント。彼は毎日の生活を極めて規則正しく送っていたため、近所の人々は彼が散歩に出てゆく姿を見て時計の狂いを直していた、という逸話は有名だ。一方で彼は社交的でしたたかな一面も持ち合わせていたらしく、四角四面な人間ではなかったらしい。

 もっと私達がよく知っている、ソリッド人間がいる。先日引退表明をした野球選手のイチロー。前回のブログ「ソリッドな生き方」を書いた翌日に彼の引退宣言があって、思った。まさに彼の目指しているのがソリッドな生き方なのではないか、と。

 イチローの生き方に関しては、NHKの番組「プロフェッショナルの流儀」などでも何度か取り上げられていたので知っていたつもりだった。曰く、毎日昼飯は妻の手作りカレーを食べ、試合の前に独りで筋トレをし、試合が終わるとチームメートが打ち上げに行っても自分は真っ直ぐ帰宅し自宅で筋トレする。過去の栄光にこだわらず、今の自分を改善することに集中する。全精力をよりよい野球のために使う孤独な日々。ソリッドすぎるくらいの生き方だ。

 しかし、様々なウエブサイトにまとめられている彼の語録を読んで、改めて驚かされた。野球音痴の私には、彼の生んだ数々の記録がどのくらい偉大なのか分からない。しかし、彼という人間がすごい人間であることは分かった。私も診察室で患者さんと生き方について話すことがあるが、なんだかそれが恥ずかしくなるくらいだった。

 彼は自分のことをよく見つめ、客観的に自分を把握している。そのうえで彼は、どのようにしたら自分が充実した「生き方」ができるかを考え、実践する。彼は言う。

「人より頑張ることなんてとてもできないんですよね。」

 「あくまで測りは自分の中にある。それで自分なりにその測りを使いながら、自分の限界を見ながらちょっと超えていくということを繰り返していく。そうすると、いつの間にかこんな自分になっているんだという状態になって。」

 「少しずつの積み重ねでしか自分を超えていけないと思うんですよね。一気に高みに行こうとすると、今の自分の状態とギャップがありすぎて、それは続けられないと僕は考えているので。地道に進むしかない。進むというか、進むだけではないですね。後退もしながら、あるときは後退しかしない時期もあると思うので。でも、自分がやると決めたことを信じてやっていく。」

 「間違ったことを続けてしまっていることもあるんですけど。でも、そうやって遠回りをすることでしか本当の自分に出会えないというか、そんな気がしているので。」

 そんな彼も、ずっと独りで黙々と自閉的に練習に励んでいたわけではない。彼を応援してくれている人との関係で自分の生き方を位置づけていた。引退前の1年間、なかなか結果を出せなかった時期を振り返って彼は言う。

 「純粋に楽しいということではないんですよね。やっぱり、誰かの思いを背負うというのは、それなりに重いことなので。そうやって一打席一打席立つことって簡単ではないですね。だから、すごく疲れました。」

 しかし彼は、そのスランプの期間をも、もしかしたら彼しか成し得ない、最良の時間だったのではないか、と捉えていた。

「ひょっとしたら誰にもできないことかもしれない。ささやかな誇りを生んだ日々であったと思う」

 「結果ではなくプロセスが大事である」とはよく言われる。言うは易い。しかし、彼はそれを実践してきた。自分がこのように生きたいと願う、その理想的な生き方で長い年月を地道にソリッドに生きてきた。それが彼を「現在の彼」たらしめた。

実存主義哲学者のガブリエル・マルセルは、イチロー的生き方を別のことばで表現した。(以下の引用は、ガブリエル・マルセル著「私と他者」から。)

「私は、自分がなすべきこと、自分が言うことへの責任を引き受けるにしたがって、自己を一個の人間として確認していく。しかし、だれの前で私は責任ある者なのか?あるいは責任ある者として自己を認識するのか?」

 このようにマルセルは自問し、自ら答える。

「私は、自分自身と他人に対して同時に責任がある。」

 その事態を、彼は次のように分析する。

「私はある現実の社会に参与する現実の存在として行動することになるのだが、私が自己を一個の人間として確認するようになるのは、まさにそのように行動することになってゆく度合いに応じてであるといえるであろう。さらにまた、これと同じ観点から、私が他人たちの存在を現実に信じるようになり、その信念が私の行動を形成していく度合いに応じて、私は自己を一個の人間として確認していくと言えるであろう。」

 もちろんイチローのみならず、すべての人が実際にそのようにして生きている。その人が他人を信ずる度合いにおいて、また、その信念を行動に移す度合いに応じて

 先日も川崎市で通学バスに乗るために並んでいた小学生たちを刃物で殺傷する事件があった。社会の中で存在を否定されていると感じた犯人が自暴自棄になり凄惨な事件を起こすに至ったのではないかと報道されているが、それはマルセルのいう「自己を一個の人間として確認してゆく」プロセスが初期で頓挫してしまった例、といえるのではないだろうか?

 自分の人生を振り返る時、また外来で患者さんの話を聞く時、人を信じ、信ずることによって行動を起こすことがいかに難しいことであるかを思わざるを得ない。そのように生きることが、自分を活かす唯一の道であるにも関わらず…。

 人を信じるには、自分を信ずることがなければならない。自分が信じられないなら、自分で下す判断も信じられないわけで、「誰かを信ずる」という自分の判断も信じられないことになるからだ。

 では、どうしたら自分を信じられるのか。とても難しい問題だ。安直な答えはない。マルセルが思考したように、あるいはイチローが考え続け実践し続けてきたように、私達も考えては行動に移すという試行錯誤を繰り返す中で「自分に対する手応え」を確かなものにしてゆくしか手立てはないのだろう。そして、それを可能にするようなソリッドな生き方が「本当に生きるということそのもの」なのだと思っている。


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