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この世の片隅に

更新日:2019年8月15日


 1年ほど前、ある患者さんに勧められて映画「この世の片隅に」を見た。印象的な映画だった。第二次世界大戦末期の1944年に見合い結婚をして呉市に嫁いだ主人公の浦野すずが、刻々と厳しさを増す戦時下の日本の片隅で、日々のささやかな楽しみを失わず健気に生きる様子を描いた作品。食料が乏しくなっていく中、配給されたものを工夫して料理したり(結局失敗するが)、衣類を作りなおして着たり、その当時なら誰もがやっていただろう日常の生活を、丹念に柔らかな色調のアニメーションで描いていて、映像からは直接は悲惨な印象は受けなかった。

 すずは米軍の投下した爆弾によって自分の右腕を吹き飛ばされ、同時にその手につないでいた姪っ子を亡くす。穏やかな性格で幼いころから絵を描くのが好きだったすずは、大切な右腕を失って絵を描くことができなくなった。それでも彼女は、残った左手を使って何とか暮らしを支えてゆく。そこには懸命さはあっても、強い不満や怒りはなかった。あらゆるものが奪われていく中で、すずを含めた世の多くの人々は、できるだけの工夫したり我慢することで、かろうじて日々の営みを保っていた。人の死すら日常となる生活では、それが当然のことだったのかもしれない。

 原作者で漫画家の、こうの史代さんはこう語っている。

「“昔の人は愚かだったから戦争してしまった。そしてこんな(貧しい)生活に”と片づけられるが、彼らは彼らなりに工夫して、幸せに生きようとしたということを、この作品で追いかけてつかみたいと思った。」

 その原作者の思いは、十分に伝わってくる作品だった。また彼女は、こうも語っている。

 「(私たちは)戦後に生まれたということは、戦争を生き延びた人からしか産まれていない。そのことを誇りに思う。そして敬意を表したい。自分の知っているおじいさん、おばあさん、戦争を経験した方々、そういう人たちになぞらえて考えたり、戦争中のことを振り返っていただき、話をするきっかけになればいいと思う。」

 戦争を体験した人のたちになぞらえて考えることの大切さは言うまでもないだろうし、「この世の片隅に」は、その助けになると思う。多くの人々がそれぞれに工夫して幸せに生きようと努力したことも、敬意に値することだと思う。

 しかし、と思ってしまう。本当に何とかできなかったのだろうか?

 大きな話になるが、北朝鮮がすでに独裁国家となっており、つい先日も中国が習近平国家主席に独裁への道を開いてしまった。ロシアでもプーチンが権力を一手に握っている。アメリカやヨーロッパでも排他的な政権が台頭している。そして、それらの動きを間接的に支えているのは、それぞれの国の片隅でつつましく暮らす庶民、つまり我々である。

 事は国家間のマクロな問題に限らない。学校でのいじめや職場や地域での問題なども、本をただせばこの世の片隅に生きている私たちが、直接あるいは間接的に関与していることばかりである。

 だからといって、自分ひとりが頑張れば何とかなるはずだし何とかなったはずだ、などというつもりはない。歴史の大きな流れ、あるいは社会の枠組みの中にあって、個人の努力など全く無力だろう。しかしそれは、「努力してもしなくても同じ」とか「努力しないでもいい」ということではないと思う。

 無力な人間たちが少しずつ力を出すことで、小さいけれども変化を起こすことがあることは、繰り返し証明されている。新潟県でも旧巻町の町民が、原発誘致反対の運動を成功させている。混迷を深める現代において、かすかな希望を見出すとしたら、そこにしかないのではないかと思う。

 NHKの朝の連続テレビ小説「わろてんか」が最終版を迎えているが、ちょうど第二次世界大戦が本格化し、庶民たちに強い統制がかかって、さまざまな娯楽が検閲の下制限されるという場面に差し掛かっている。「この世の片隅に」同様、「わろてんか」の登場人物たちも、不自由さの中で懸命に、少しでも自分たちの人生を生きようと頑張っている。彼らに共感するとともに、我々の時代が同じような軌跡を辿らないためにはどうしたらよいのか、考えさせられる日々である。


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