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「汲む」 茨木のり子

更新日:2019年8月15日


 茨木のり子という詩人がいた。もう故人となったが、こころに残る詩を多く遺した。たとえば、「汲む」という詩の一節:

「初々しさが大切なの

  人に対しても世の中に対しても

人を人とも思わなくなったとき

  堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを

  隠そうとしても 隠せなかった人を何人も見ました」

 立ち居振る舞いの美しい、発音の正確な、素敵な女の人が、「大人になるために」すれっからしになろうと努力していた少女の頃の茨木さんに、何気ない話のなかで言った言葉だとのこと。後年になっても、折に触れて「ひっそりとその意味を『汲む』のです」、と詩は結ばれている。美しくやわらかな詩だ。

 悩んでいる患者さんに、この詩を紹介することがある。

「大人になってもどぎまぎしたっていいんだな

  ぎごちない挨拶 醜く赤くなる

  失語症 なめらかでないしぐさ

  子どもの悪態にさえ傷ついてしまう

  頼りない生牡蠣のような感受性

  それらを鍛える必要は少しもなかったのだな」

 茨城さんの詩を患者さんに紹介しながら、実は私自身がこの詩に支えられてきたことに気づく。頼りなさをそのままに、弱さをそのままに、しかしそれでも崩れずに生きればいいのだな、と。


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