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2022年5月8日5 分

ウクライナと私たち

 ロシアのウクライナへの侵略が止まらない。ウクライナ問題は、日本に暮らす私たちに深刻な問いを突きつけてくる。それは、憲法も含めた「国の自衛」に関する問題である。

 日本は、戦後、新たな理念に基づいて憲法を制定して国を興す努力をし、それはある程度成功してきた。しかしそれが、今回のウクライナ侵攻で揺らぎつつある。

 私は日本国憲法の前文にある、以下のくだりを、ひとりの人間として、あるいは医師として、とても大切で美しいものと思ってきた。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚す

るのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持

しようと決意した。(下線部筆者)

 

 戦争放棄を明記した憲法第九条は、上記の理念があってこそ成り立つ。逆に言えば、「平和を愛する諸国民の公正と信義」信頼が置けない状態では、戦争放棄ために武力を持たない、などとは怖くて言えないということになる。

 しかし果たして、今のウクライナを見て、ロシア、あるいはロシアの行動を糾弾しようとしない中国を含めた親ロシア諸国を、「信頼できる」と言い切れるだろうか?

 今回ロシアが突如としてウクライナ侵攻を始めたのは、2014年にあっさりとクリミア半島をウクライナから奪取できたからだ、と言われている。もしその当時のウクライナが、今のようにロシアに対して頑強に抵抗できていたら、今回の侵攻はなかったかも知れない。

 誰だって殴りかかってくる敵から我が身を守りたい。国レベルでも同様に、他の国々が完全に信頼できるという状態でなければ、国を自衛できる武力を持ちたいと思うのが当然だ。

 日本は現在でもある程度の自衛力は持っているが、ここで改めて、日本も武力を持つべきなのか否か、少し立ち止まって考えてみたい。

 先ず私たちにとって、守るべき「国家」とは何だろう?自分や家族の命や生活を賭してまで守らなければならない「国家」とは何だろう?

 進化論を提唱したダーウィンは「人間の由来」という著書の中で、「自分の属するグループ」の存続を促進する行動が進化の過程で淘汰選択されてきたとし、それが「倫理観」の基礎となっていると論ずる。おそらくそうなのだろう。とすると、自分の属する「国家」という共同体を存続させる行動を「本能的に」人間は取りたくなる、ということなのかもしれない。

 しかし、それでは「人類」が全体として平和共存することは望めない。

 集団は、敵対する外部集団があって初めて「運命共同体」としての意識を持ち、内部に団結力が生まれる。してみると、人類が全体として自然にまとまるのは「宇宙人」が攻めてくるまで待たないといけないことになって、それまで人類は国家間の抗争を続けることになる。

 しかし大量の核兵器や高精度の長距離ミサイルがある現在、国家間の争いは当事者のみならず、世界の国々の存続すら脅かしかねない。

 世界平和を祈念して作られた国際連合は、実際はアメリカやロシア、中国のような国々に引きずり回されることが多く、武力的執行機関である国連軍も諸国の寄せ合わせで統制に欠け、世界平和を守る組織とはなっていない。いきおい諸国は、自前である程度の軍備を備えなければならなくなる。

 では、どうせならできるだけ強大な軍事力を持った方がよいのだろうか?

 アメリカでは銃を持つことは違法ではないが、最もその銃の標的にされやすいのは、狼藉を働く部外者ではなく「家族」であるという。それを当てはめると、自国軍の標的にされやすいのは自国民ということになる。

 実際、歴史を振り返ってみると、軍部が政治家に利用され国民の生活を圧迫した例、あるいは、軍部がクーデターを起こして軍事政権を樹立してしまった例には事欠かない。現在のミヤンマーが、そのよい例である。

 さらに、軍備を増強すると、政治家と産業界および軍部の間にwin-winの「利益共同体」を生み出す。それは破壊兵器の開発製造および使用を促進し、結果的に自国民の経済や生活を損なうことになる。

 また、今回のロシアによる侵攻は、ウクライナがNATOに加盟しようとしたことが直接の原因となっていることを考えると、自国の防衛力強化を図ろうとすることが、戦争を誘発するという危険を考えないわけにはいかない。

 実際、アメリカーソビエトの冷戦時代には両国が激しい核軍備競争を繰り広げ、その結果、核戦争のボタンが押されるすんでのところまで危機的状況が進んだ、という事実があった。このことは、随分後になって、アメリカの機密文書が公開されて初めて明らかになったのだが、その当時私たちはその危機を知る由もなく、「平和に」暮らしていたのだった。

 軍隊を持てば持ったで、持たなければ持たないで、大きな危機を招く恐れがある。この身動きのとれないような状況にあって、私たちは、どのような選択をして生き延びていけばよいのだろう?

 戦後政治においては安保闘争や自衛隊問題などの問題は大きな争点であり続けた。しかしそれらは、どこか「理念闘争」の感が拭えなかった。「自分」が傷つかないところでの議論、であったように感ずる。

 しかし今は違う。私たちは、おそらく戦後初めて、「自分の国をどのようにして守っていくのか」という問いを、切実に突きつけられている。

 「正解」はないかも知れないが、その問題を回避して生きることはできない。そのような覚悟をもって、ウクライナ情勢を見守りたい。

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