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2021年4月16日4 分

ひそやかなもの

最終更新: 2021年9月3日

「大切なものは目に見えない」とは、サン・テグジュペリの書いた「星の王子さま」の有名な1節だ。その、目に見えにくい「ひそやかなもの」を写真に撮り続けた人がいる。ソール・ライターというアメリカの写真家だ。


 

 彼は、ヴォーグなどの有名ファッション雑誌のモデルたちを撮影する売れっ子写真家だった。しかし1981年、58歳だった彼は突然、その仕事をやめてしまった。商業主義路線に乗っかって写真を取り続けることにうんざりしたのだ。彼は語る。


 

 「かつて、ファッション雑誌での1年より好きな画家の1枚のデッサンの方が私にとっては意味がある、と編集者に言った事がある。彼女の表情は凍りつき、完全に軽蔑の眼差しで私を見つめていた」


 

 その後彼は、89歳で亡くなるまで隠遁生活を続けた。


 

 彼の生活はシンプルだった。毎日朝起きてコーヒーを飲み、本を読み、好きな絵を描き、アパートの近所、歩いて20分くらいのところを写真に撮り、親しい人たちと穏やかな日々を送った。


 

 彼が愛したのは、彼の日常だった。


 

 彼はのびのびとした青少年期を送ったわけではなかった。代々ユダヤ教の指導者を務める家系に生まれた彼は、子どもの頃から厳しい戒律を守りながら勉強に励んだ。しかし23歳の時、神学校を中退し写真家になる。偶像崇拝を禁ずるユダヤ教では、他人を写真に撮るのはタブーだった。家族の失望は大きかった。彼の生き方を理解したのは、妹ひとりだったという。


 

 彼はニューヨークの下町イーストヴィレッジのアパートに棲み着き、生涯自分の住む近所の風景を撮り続けた。彼の亡くなった後には、現像されていないフィルムも含めて、膨大な写真が未整理、未公開のまま残された。


 

 「私は単純なものの美を信じている。最もつまらないと思われているものの中に興味深いものがひそんでいると信じているのだ」


 

 「私の好きな写真は、何も起きていないように見えて、片隅で謎が起きている写真だ」


 

 「雨粒に包まれた窓の方が、私にとっては、有名人の写真より面白い」


 

 しかし彼は、ただ面倒なことを避けて隠遁生活に入ったわけではない。


 

 「成功するためにすべてを犠牲にする人もいるけれど、私はそうしなかった。私を愛してくれる人、私が愛する人がいるかということの方が、私にとっては大切だった」


 

 「人生において大切なのは、何を手に入れるかではなく、何を捨てるかなのだ」

「私は物事を先送りにする。急ぐ理由が分からない。人が深刻に考えることの中には、そんなに重大でない事が多い」


 

 彼は日々、そんなふうにつぶやきながら、仕事のオファーがあってもなかなか受けようとせず、友人からの援助がなければ電気代さえ払えないような極貧生活を続けた。ある友人などは、「ソール、君はチャンスを避ける才能に恵まれているね」と、からかうほどだったという。


 

 2013年公開のドキュメンタリー映画『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』の日本語字幕を担当した柴田元幸は、ライターの作品には「自分への執着」が感じられない、と言う。そしてそれは彼自身の生き方についても同様であり、「人生でも名声や成功をライターは求めませんでした」と評する。


 

 その映画でライターは、映画を撮っていたリーチ監督に次のように問いかける。


 

「物事には表に現れているものと裏に隠されているものがある。人生も現実の世界も、より『隠されているもの』と関係しているんじゃないかと思うが、君はどう思う?」


 

 それに対してリーチ監督は、「そうなんじゃないかな、と思います」と答える。しかしライターは、その答えに満足せず、さらに畳み掛けるように問う。


 

「本当にそう思うかい?」

 リーチ監督は重ねて「そうなんじゃないかな…本当に、そうなんじゃないかな、と思います」と答えた。それでもまだライターは十分に得心した様子ではなく、次のように付け足す。


 

「私達は、表に現れていることが現実世界のすべてだと思い込むのが好きなんだよね。」


 

 彼は一人でずっと、何十年間も、人が装う表の表情ではなく裏を、「人生の本当」を、見つめ続けた人だった。


 

 ソール・ライターという写真家を、私はNHKの日曜美術館で1年ほど前に知った。その時も印象的な人だと思った。今年、その同じ番組の再放送を見て、前回よりずっと強い感銘を覚えた。この1年で、私の中で何かが変わったのかもしれない。


 

 「ライター風の写真」を撮ることが、SNSでもひそかなブームになっているようだ。それもよいが、「ライター的な生き方」をする人が多くなったら、いくらかマシな世の中になるのではないか、とひそかに思う。

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